大阪の川口
明治の文明開化は、大阪の川口からはい
った。
川口は、淀川が中之島で堂島川と土佐堀
川に分流し、再度合流し安治川の河口に
あり、安治川と木津川の間ある中洲周
辺をいう。
 
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安治川(左岸)の川口と右岸(北)の中央卸市場
 
五代友厚
五代友厚は薩摩藩士で、幕末に欧州視察
し、明治維新政府では、外交官に起用さ
れ、京阪神で起こった事件、神戸事件(
1月)、2月堺事件、バークス公使襲撃事
件の処理にあたった。
 
大阪の開港と川口居留地
幕府は、修好通商条約にもとづき、函館
・神奈川・長崎が開市、兵庫・新潟が開
港することになるが、居留地造成工事が
進まず、大阪が開港したのは、慶応4(
1868)年7月になった。
 
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大阪の開港の地と大阪電信発祥の地  
 
 
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川口居留地跡(本田小学校横)

 

安治川と木津川が分流する川口は、「出
船千艘、入船千艘」といわれ、船の往来
が激しく、ここに舟番所があり、船蔵、
舟手屋敷が並んでいた。
 
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五代友厚は、各国の領事に競売を通知し、
各国商社・個人が各区をイギリス(13)
、アメリカ(4)、プロイセン(4)、
フランス(2)、オランダ(2)、ベル
ギー(1)の6ヶ国が落札した。
 
 
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大阪の開港の地と大阪電信発祥の地(中之島漁港の西隣)
 
川口の外国人居留地には、洋風の街
でき、周辺には大阪初の電信局、大阪
府庁などが建設され、大阪の文明開化
の象徴の地になる。
 
大阪港と川口居留地
川口の港の川底は浅く、貿易港として
は難しく、貿易商らは、神戸に本拠地
を移していく。
その後、商人に代わり、宣教師が居留
し、学校、病院などを経営し、プール
学院、大阪女学院、大阪信愛女学院、
桃山学院など、ミッションスクールが
川口で創設された。
 
大阪港と松島遊郭
大阪港開港に伴い、新政府は、外国人
が日本の女性に猥雑行為に及ばないた
めに川口居留地に松島遊郭を開設させ
た。(明治元年)
 
松島遊郭には、新町の遊郭が九条・松
島に移され、九条は、江戸時代は「く
じょう島」と呼ばれ、のちに「九条」
と改め、北の端は大坂舟手の屋敷で、
尻無川と木津川に挟まれた地(寺島)
にあった。
 
五代友厚と大阪
明治2(1869)年5月、横浜勤務を
政府に命でられ、2ヶ月後官職を辞し、
「官界に人材あれど、民間に人なし」
と、大阪の商工業活性化のために、大
阪に移り住む。
 
五代は、旧貨を買い集め、今宮村(西
成郡)に金銀分析所を創設し、造幣寮
に納入した独占的事業で、財を成した。
のちに鉱山事業(明治4年)など多数
の事業を起こし、堂島米商会所、大阪
商法会議所などの設立に指導的役割を
果たした。が、明治18(1885)年に
五代友厚は49歳の若さで病死。
 
条約改正と居留地
明治27(1894)年、外務大臣陸奥
宗光は、英国と新しい通商条約に調
印し、安政5ヵ国条約の改正に成功
する。
条約改正で、日本各地の居留地は廃
止され(1899年7月)、川口居留所
は、大阪府(のちの大阪市)に引き
渡された。
 
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2月12日