大阪はどうかわっていったのだろう。
大阪の鴻池新田駅(JR片町線)前す
ぐに、鴻池新田会所がある。
ここは、江戸時代に豪商鴻池が開発
した新田の管理・運営を行った施設
として知られている。
 
江戸時代に、幕府の新田開発は全国的
にを進められ大阪では、すでに九条
村(慶長10年・1605年)にはじまり、
元禄期の淀川の改修、それに続く大和
川の付け替えで急速に進んだ。
 
ー大和川の付け替えー
秀吉によってつくられた大坂、その後
約100年を経て、大和川が付け替えら
れ、以後北に流れていたこの川は、
原からまっすぐ大阪平野を西に流れ
阪湾に注ぎ現在に至る。
 
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大阪の北に大きな池、深野池(ふこう
のいけ)と新開池があった。
北からの寝屋川が深野池の西堤に沿っ
て南下、新開池(しんひらきいけ)
堤から徳庵井路を経て、大阪城の東で
平野川と合流したのち淀川と合流していた。
 
一方、奈良を水源とする大和川は、河内
に入り、柏原から、北に幾つにも分かれ
久宝寺川と玉櫛川に分かれ、久宝寺川は
鴫野(しぎの)を経て寝屋川と合流し、
淀川と合流していた。玉櫛川はさらに分流
し、深野池(吉田川)、新開池(菱江川)
に注いでいた。
 
このように、大和川をはじめ河内平野の
すべての水が、大坂城の北で、東から淀
川に合流し、海への出口が一箇所しかな
く洪水が起こる原因となっていた。
 
そして、生駒山麓からの西への傾斜が緩く、
川底に土砂がたまりやすく、洪水を防ぐた
めに幕府はたびたび堤防を高くし、家屋
が川面より低い天井川が、川沿いの地域に
多くできた。
 
大和川の氾濫の被害が絶えず、元禄期に
中甚兵衛らは幕府に嘆願する。
これまで、深野池、新開池など堤防修復
にかかる工事代金三千貫になるが、大和
付け替えると、川底になる土地など
ができ、修復代金もいらなくなり、深野
池、新開池にかなりの新田ができ、その
、水害にあっている農民もたすかるな
ど嘆願している。
(貞享4年・1687年.4月末日、河内郡、
若江郡、調良郡、茨田郡、高安郡)
 
ー大和川の付け替え後と鴻池新田ー
嘆願から50年をへて、幕府は大和川付け
替えの工事がはじまり、8ヶ月で工事を完
成させた。
 
幕府は、多くの年貢を得るために、新田
開発の希望者を募り、地代金をとり、
田開発と耕作の権利を与え宝永2(17
05)年から大和川河川敷で、町人請負、
農民寄合請負、寺院請負によって開発が
始まった。地代金総額は3万7千両余に
なり、幕府の付け替え費用分を補填した。
 
付け替え工事のあと、大坂や河内の商人
がおもに請負い、河内平野で開発された
新田が約40(約1200町歩、総石高11
000石)、そのうち最大は、大阪の両替
商鴻池善右衛門が開発した鴻池新田で、
約200町歩(約200ha)と6分の1を
占めていた。
 
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新開池(しんひらきいけ)の池床を造成した
鴻池新田は、粘土と砂混じりの痩せた土地で、
低地で水はけ悪く、田畑は3対7で、畑で綿
をつくり、これを商人に売り銀を得ていた。
 
ー鴻池新田会所ー
鴻池新田は、町人請負新田として知られ、
新田会所屋敷が現在も保存されている。
 
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    豪商鴻池家が、開発した新田の管理・運営をおこなった鴻池新田会所
 
新田会所屋敷は、敷地が、土間などが広いのには驚きだった。
 
 
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ー鴻池新田会所屋敷
 
 
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月31日