「真田丸」は最終回、真田幸村は大坂
の陣で討死する
ところで、その後の真田家になるが、
兄の信之が、家康と同じく、明治の世
まで、真田家の礎を築くことになる。
 
真田信之と家康(大坂の陣)
家康から豊臣討伐の大坂出陣の命が
下った。
信之(49歳)は、病のために出府
するところ上田城にいた。
信之には、家康にかくべつの恩義が
あった。
 
関ヶ原合戦後、信之は、父昌幸と弟
幸村の助命嘆願を家康に願い出て、
聞き入れてもらい、昌幸と幸村は、
高野山で蟄居の身になれた。
 
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真田昌幸・幸村親子が蟄居した高野山の蓮華定院
 
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3年前、父昌幸が蟄居先の高野山の九度
山で生涯を閉じた
信之は、本多正信を介して、家康の許し
を得しめやかな葬儀を執り行うことが
できた。
 
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真田昌幸・幸村親子が暮らした真田庵屋敷と昌幸・幸村・大助の墓
 
 
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真田信之の長男・信吉、次男信政

真田信之が病気で出陣できず、信之の

妻小松姫の実家・本多忠勝を通じて、

その出陣に配慮される。

出陣の命の末尾に、貴殿が病ゆえ参陣
できぬ時は嫡男信吉を出府されたしと
記されていた。
 
真田信吉・信政兄弟と大坂冬の陣
真田信之は、兄信吉と弟信政に兵をつ
けて出陣させた。
ふたりは、本多忠勝の次男忠朝につけ
られる。
11月の大坂冬の陣では、上田真田隊
は真田丸の攻撃に加わらず、和議成立
後の堀の埋め立てに従事する。
 
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冬の陣図(信吉・信政は大坂城の北東)

 
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大阪夏の陣図(信吉は茶臼山南東)
 
真田信吉・信政兄弟と大坂夏の陣
翌年4月夏の陣がはじまる。
このときも病床にあった信之は、
度、信吉・信政を出陣させた。
5月6日、上田真田隊は井伊隊に属
し、若江の戦いで、木村重成隊を相
手に奮戦した。
翌5月7日、徳川方は豊臣方の予想
を越えはやさで北上した。
最終決戦は、天王寺で、徳川方の本
多忠朝真田信吉・小笠原秀政隊と
豊臣方の毛利勝永隊との戦闘にはじ
まった。
 
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一心寺(大阪市天王寺区逢坂)の家康が隠れた松の木
 
 
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一心寺の本多忠朝(本多忠勝の次男)の墓
 
真田信之の弟幸村は、大阪夏の陣で、
「真田日本一の兵(つわもの)」の名
を残し、大坂夏の陣で散った。
 
上田から松代へ転封
大坂夏の陣以後、本多秀忠は、大名統
治の仕上げにかかり、外様の真田家は
7年後に上田を召し上げ、代って松代
10万石に移封。
3万5000石の加増だが、実質は痩
せ土地で減封になり、父祖伝来の土地
を追われる。(元和8年・1622年)
秀頼には関ヶ原以来の真田への遺恨が
含まれている。
 
真田信之と小野お通
転封になった信之が京の親交あった
お通に出した手紙がある。
「もはや、この世にはいらぬ命と
は思うていますが、子どものため
と思い定めて、露の命の消えぬま
と世を渡り、朝げの煙の心細さ、
ご推察ください。
この手紙は必ず火に入れてくだ
さい。無駄に書き散らしました。」
 
小野お通は、書、茶に通じ、箏曲
の名手として知られ、真田信之と
は馴染み深く、のちお通は娘と松
代に移り住み、信之の晩年に安ら
ぎをもたらす。
 
真田信之と家督相続
真田信之は家督を次男信政に継が
せた。
ところが信政は病没し、信政の子
幸道が継ぐが、このとき弟の子・
信利が異を唱え幕府へ訴え出た。
 
相続争いで、真田信之(93歳)
は、幕府の介入・処分を避けるた
めに、信利を説得し、老中酒井忠
に道理を説き、幸道を3代藩主
とし、のちのちま真田松代藩は
存続する。
 
2代藩主信政とお通の娘(2代目
お通)との間に生まれた信弘は
、幸道の跡を継ぎ、4代藩主にな
る。
こうして、真田信之が、礎を築い
た真田松代藩は、明治まで存続し、
10代藩主幸民が藩知事の職を辞し
て松代支配を終えた。(明治4年)
 
参考(メモ)
幕末に真田家から出た幕府老中・
真田幸貫(8代藩主)は、下級武
士の佐久間象山を見出して起用し、
殖産興業策を成功させた。
京都の松代藩菩提寺は真田信之の
遺命で妙心寺に創建される。
 
 
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妙心寺(京都市右京区)松代藩菩提寺大法院
 
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妙心寺大法院(松代藩菩提寺)佐久間象山の墓石
 
 
12月16日