ここは、貝塚の願泉寺。
この寺はかつて、浄土真宗の本願寺であり、
戦国時代の秀吉はもちろん、大河ドラマ「真田丸」で
放映中の大坂の陣ともゆかりがある。

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                貝塚の願泉寺(貝塚市中846)

ー「真田丸」と大坂夏の陣ー
大河ドラマ「真田丸」は、家康が全国の諸大名に、
豊臣方が堀を埋めるなど不穏な動きがあり、と
大坂城を攻める命令をくだした。

一方、豊臣方の牢人たちは、籠城は無理なため、
城を出て、徳川方と戦う作戦をとった。
ときは慶長20年(1615年)4月下旬。

ー大坂夏の陣と紀州街道ー
大野治房は、4月27日に大和郡山・法隆寺に乱入、
翌28日住吉・堺を焼き払い、さらに南に下り、岸和田城を包囲した。
大野治房は紀伊北部の一揆と呼応して浅野勢を挟撃するために、
塙団右衛門と岡部大学を先発させた。
塙団右衛門らは、紀州街道岸和田から貝塚にはいる。

ー貝塚の願泉寺と卜半斎了珍ー
さかのぼるは秀吉の頃の貝塚。
願泉寺のもとは貝塚の庵寺で、ここに紀伊根来寺(福永院)から、
僧右京坊が迎えられる。
右京坊は、卜半斎了珍と名乗った。

ー卜半斎了珍と秀吉ー
願泉寺は、浄土真宗の本山・本願寺が二年
置かれ(天正11年・1583年-)、泉州一向宗の拠点となり、
織田信長の焼き討ちにあう。

秀吉が根来攻めのとき、貝塚の根来衆の出城を攻め落とせず、
願泉寺住職の了珍に仲裁を依頼し、和解ができた。
この後、秀吉は一挙に紀州大田城を攻め落とし、
天下統一の布石ができる。

以後願泉寺は、秀吉より、寺領とともに
「願泉寺内においての狼藉の禁止令」をはじめ、
検地の竿入などを免ぜられ、数多くのとりなしを受ける。

ー大坂冬の陣(卜半了閑と家康)ー

イメージ 2家康は、大阪冬の陣で、真田幸村の出城・真田丸を落とすことができず、貝塚御坊の卜半を訪ね、難を逃れる。
家康は、願泉寺の表門に立ち
「お願い申す、我こそは徳川家康なり」と告げ、「窮鳥、懐に入らば、狩人これを取らず、援助の兵の来るまで比由寺内にかくまい下され」と窮状を願うと、
了珍の長男で、二代住職卜半了閑は、
無言のまま、表門を静かに開けた。








ー大阪夏の陣の緒戦・樫井合戦ー
4月29日未明、塙、岡部は貝塚を発つ。
豊臣方は先手の塙と岡部が先陣争いをし、
船岡山、八丁畷、樫井で、徳川方の亀井大隅らと大激戦となる。
豊臣方は樫井合戦塙団右衛門ら討死し、敗退する。
7日後に大坂城は落城し、豊臣家は滅びた。(1615年)

ー貝塚の願泉寺と寺内町ー
大坂城の落城後、家康は、卜半を「貝塚の主」と呼び、
願泉寺は、「寺内の建設はすべて先代卜半斎了珍の
働きによる」もので、「和泉国貝塚本願寺下卜半寺内」の
諸役を免除する、家康の黒印状が与えられた。

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信長の石山合戦後、諸国の寺内町は、
特権がみとめられないなか、只ひとつ、
貝塚の願泉寺は秀吉以後310余年に渡り、
寺内町の特権が認められていた。



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12月8日