京で暗殺された坂本龍馬の暗殺者を
探しあて、仇討ちをした人物がいた。
海援隊の陸奥宗光がその人。
 
夕陽丘(稱念寺)と陸奥宗
夕陽丘(大阪市天王寺区)の稱念寺
に、彼を記す「伊達家・陸奥家 墓
所跡」の碑がある。
龍馬暗殺の主犯者を襲撃した陸奥宗
光は、夕陽丘の地に葬られる。
 
天満屋事件(京都)と陸奥宗
天満屋事件(京都)と呼ばれた襲撃
事件があり、その顛末を記した説明
板があり、これを参考にして記す。
 
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稱念寺(大阪市天王寺区夕陽丘町5-4)

 

 
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伊達宗光と「夕日丘」
宗光の父は伊達宗広。
父宗広は紀州藩の重臣で、国学
者にて勤王家。
藩内の政争で失脚した宗広は、
歌人の藤原家隆を敬愛し、家隆
の塚があるこの地に自在庵を建
てる。
また、宗広は家隆の和歌の「契
りあれば なにわの里に やど
りきて 浪の入日を 拝みつる
かな」にちなみ、当地を「夕日
丘」となづけ、ここを伊達・陸
奥一族の墓地と定めた。
 
宗広は明治15年に亡くなるが
遺言により、夕日丘に葬られた。
以来、陸奥宗光をはじめ、代々葬
られていたが、昭和にはいり、
倉の寿福寺に改葬された。
 
 
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鎌倉時代末期の歌人藤原家隆の家隆塚
 
海援隊の坂本龍馬と陸奥宗光
宗光(1844-1897)は文久2
(1862)年に脱藩し陸奥陽之
助(源二郎)と名を変える。
文久3(1863)年に、宗光は、
勝海舟の弟子となり、神戸海軍塾
で学び、坂本龍馬と知り合い亀山
社中・海援隊に加わり、龍馬の副
官格として活躍した。
 
坂本龍馬暗殺と暗殺者襲撃事件
龍馬が殺害された後、紀州藩士三
浦休太郎が龍馬殺害の主犯者と考
えた宗光らは、三浦を襲撃し、護
衛していた新選組と闘った。
これが天満事件(京都)である。
史跡の説明を参考にし以上を記す。
 
天満屋事件
慶応3(1867)年、京都の近江
屋で龍馬が殺害されると、陽之助
は海援隊、陸援隊の一部を糾合し、
黒幕と睨んだ紀州藩士三浦休太郎
を襲撃する。
 
三浦休太郎と陸奥陽之助
いろは丸事件で怨みをもち、新選
組に龍馬を討たせた三浦休太郎の
護衛を新選組がしていると情報が
はいる。
陽之助が中心となり、海援隊、陸
援隊から募った16人は、12月7
日夜9時、京の油小路花屋町の天
満屋を襲撃した。
 
天満屋と新選組
陸奥ら17人は天満屋の2階に乗
りこむ。
襲撃側は十津川郷士中井正五郎が
即死、負傷なし。
一方新選組は大石鍬次郎はじめ10
名。うち宮川真吾が即死、三浦の
紀州組3人が死亡。
激闘のすえ、陸奥陽之助らは、三
浦休太郎を仕とめたと間違い、ひ
きあげた。
 
ところで、三浦休太郎が、この
件とは無関係だとわかった。
官軍に捕えられた新選組の大石鍬
次郎が、龍馬の暗殺は、新選組で
なく「見廻組である」と供述し、
のちに事件の全容を知る捜査に結
びつく。
龍馬の下手人の内3名が鳥羽伏見
の戦いで戦死し、大阪真田山の心
眼寺で葬られていた。
 
維新後の陸奥宗光
神奈川県令などを務めたが、土佐
立志社の政府転覆事件(明治10年
・1877)に加担したため、入獄
させられる。
しかし、出獄後は、駐米公使、農
商務大臣、外務大臣を歴任する。
特に外相として不平等条約の改正
日清戦争の講和に尽力した。
明治30(1897)年8月24日
没。亨年53歳。
 
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和歌山城向い付近の陸奥宗光銅像
 
海援隊の陸奥宗光は、最期に大
阪の夕陽丘の稱念寺に埋葬され
て永眠。
 
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5月3日