大阪から紀伊山地を越え、紀ノ川を
渡ると高野山があり、その山の麓の
九度山にゆく。
九度山には「日本一の兵(つわもの)」
と呼ばれた真田幸村がいた。
 
関ヶ原の戦いで豊臣方が敗戦し九度山
で蟄居。
真田幸村は、大阪冬の陣で大坂城に入
城するまで14年間を九度山で暮らした。
 
配流の地の高野山
幸村の頃の高野山は、これまでとちがい、
ときの権力者は、謀反者をいったん高野
山に追放させ、その罪を償わせる場所に
していた。
 
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             高野山奥の院弘法大師御廟
 
真田昌幸・幸村親子は、死罪をまぬがれ、
高野山に流された。
これは、昌幸の長男信幸が武田家滅亡後、
家康に忠誠を尽し、家康の重臣本多忠勝
の娘を家康の養女として正室にむかえて
いた存在が大きい。
 
九度山
昌幸・幸村の身柄は紀州の浅野家預かり
となる。
昌幸・幸村は、妻子を伴っており、女人
禁制の高野山のため、金剛峯寺の寺領の
九度山村を住まいとした。
ときは、慶長5年12月13日で、総家
衆16人であった。
その後真田屋敷跡に現在の善名称院が建
てられている。
 
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真田屋敷跡(現善名称院)
 
 
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真田庵の父昌幸(真田一族と真田紐)
14年間、幸村は稀代の戦術家昌幸の父
のもとで暮らした。強く丈夫な真田紐の
製法を考えたのが昌幸。
真田紐は、甲冑の吊紐、荷づくりの紐、
帯紐など、日常的に使われ、大阪で、
九度山に近いや、泉大津に販売してい
た。
冬の陣が始まる3年前、慶長16年6月
4日に昌幸は永眠、64歳。
 
幸村、九度山退去
大坂城から使いが来る。
大野治長の家老米村権右衛門が幸村の家
来池田長門の家へ。
幸村は裏門から池田家にはいった。
秀頼の御教書を開くと「入城して自分を
助けよ」。
翌朝、米村権右衛門ほか2人、あきんど
姿で幸村の秀頼への返書「右大臣家に馳
走つかまつらん。」をもって家を出た。
 
大坂城へ向かう幸村
真田一統は、橋本から紀の川を越え、
ノ見峠の紀州ふもとで、山伏の装束にか
え、峠の関所で
「吉野蔵王堂に属する大先達月叟(幸村
の僧名)とその一統」と名乗り、押し通
った。
紀ノ見峠を越え、千早赤坂村を右に見つつ、
南河内の石川河原へ降り、大坂城に向かう。
 
 
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真田一統の道(九度山から大坂城)
 
 
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真田幸村(年譜)
1567(永禄10)年   真田幸村誕生
1583(天正11)年   父昌幸が上田城の築城に着手
1585(天正13)年   
昌幸が上杉家と同盟、幸村が人質。
昌幸・幸村、上田城で家康軍を敗走させる。  
昌幸が秀吉に臣従、幸村が秀吉の人質。
3月、秀吉、根来攻め太田城水攻め
 
1589(天正17)年   
兄・信幸が家康に出仕し、本多忠勝の娘と結婚
秀吉の小田原攻めに昌幸、信之ともに参戦。
1600(慶長 5)年    
7月、犬伏の密議。真田家の方針を決める。
昌幸・幸村、徳川の陣を離れ上田城、信之は東軍。
9月6日、上田城で徳川秀忠軍に勝利。
9月15日、関ヶ原の戦い、家康軍勝利。
12月12日、真田昌幸、幸村九度山に蟄居
信之は沼田領に加え、小県郡の旧領安堵。
1603(慶長 8)年    徳川家康、江戸幕府開く
1611(慶長16)年  真田昌幸、6月4日卒(64歳)
1614(慶長19)年     
9月25日、幸村・大助ら九度山を出立。
10月家康、諸国に大坂追討を命ず。
11月19日大坂冬の陣
1615(慶長20)年 
4月、大坂夏の陣大阪城焼失(5月8日)、
 
 
4月19日
  高野山の麓の慈尊院ー九度山と高野山(町石道)ー新和歌山物語(67)