九度山の真田庵から紀の川沿いにあ
る慈尊院にゆく。
慈尊院は弘法大師・空海の母と縁が
あり、高野山から慈尊院に通じる道
がある。
空海は嵯峨天皇から高野山の地を賜
ったときに、高野山の麓の参詣の入
口にも伽藍をつくり、高野山一山の
寺務所・政所を置き、宿舎・修業の
場とした。
九度山と慈尊院
空海の母が四国讃岐(現香川県善通寺
市)から息子に会いにきたとき、高野
山が女人禁制のため、空海は高野山の
麓のこの政所を母の居にした。これが
のちの慈尊院。
「九度山」の名の由来
空海は20数kmの山道を、ひと月に
九度、たびたび母に会うために歩いて
きた。
このため、この辺りを九度山と呼ぶ。
慈尊院
空海の母は、承和2(835)年に亡
くなる。
そのとき、空海は廟堂を建立し、弥勒
菩薩と母の霊を祀り、この政所を慈尊
院と呼ぶ。(三条実行「鳥羽上皇高野
御幸記」)
高野山の麓の空海の政所
壬生官省符神社
慈尊院境内の南、階段をあがると壬生
官省符神社。
空海によって、高野山領の荘園の鎮守
として創られた。(弘仁7年、816年)
明治43年には、九度山周辺の諸社を
合祀した神社となる。
壬生官省符神社
高野山町石道(ちょういしみち)
高野山の壇上伽藍の根本大塔を起点と
して、慈尊院までの約22km。
壬生官省符神社にゆく階段の途中に町
石道がある。
慈尊院から奥の院までの町石道
大塔から180町の慈尊院の町石
この道中に180基の町石がある。
五輪卒塔婆形の石柱の114町石
1町約109mで約12.4kmの113町石
高野山の壇上伽藍の大塔から
高野山奥の院・弘法大師御廟まで
約4km、36基の町石がおかれる。
根本大塔からの1町石
弘法大師の奥の院御廟
慈尊院から奥の院まで合計216基の
町石がある。
また、町石の近くに里石(りいし)が
4基おかれている。
高野町石道は国の史跡として指定され、
ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場
と参詣道」のひとつ。
平安時代は木製の道しるべが、鎌倉時
代に石造りになり、今も当時の面影を
つたえている。
4月18日
九度山の松山常次郎ー幸村の真田祭と松山常次郎ー新和歌山物語(66)