大石順教は大阪の道頓堀で生まれ、
本名は大石よね。
よねは、明治21年に生まれ、11歳
で京舞の名どりとなり、13歳で芸
妓の道を目指し、堀江の山梅樓の中
川万次郎の養子になる。
 
堀江六人斬り事件とよね
養父の万次郎は、妻が男と駆け落ち
したために、日本刀で妻の家族3人、
養女の芸妓2人を惨殺する。
そのとき、よね(芸妓名妻吉)は、
両腕を切断された。
われ一人 残してゆきし 五人の
 妓の魂は ながれてぞゆく
 
よねと芸能
よねは話題の事件の被害者となった。
のち妻吉の名で長唄をし、地方巡業で
生計を立て、両親を養う。
この間、カナリアを見て、口で字を書
くようになる。
くちに筆 とりて書けよと 教えたる
 鳥こそわれの 師にてありけれ 
 
よねと結婚
芸能界を引退したよねは、24歳のとき
に画家の山口草平と結婚。
長男、長女をもうけたのち、49歳のと
き(昭和2年)、夫の不倫で協議離婚し、
身体障害者の相談をはじめる。
叱りながら われも思わず なみだしぬ
 父をはなれし 子ゆえ母ゆえ
 
よねと施設(高安)
東京で更科絵を描き、暮らしをたてて
いたが、大阪の高安(現八尾市)に移
り、婦女子のための収容施設をつくった。
心ある 都の人に 聞かせばや 
 高安山に 鳴くほとぎす
 
大石順教と高野山
55歳の時(昭和8年)、高野山金剛
峯寺にて得度し、名を順教と改め、仏
道の日々を高野山にて3年間過ごした。
つみふかく あわす手もなき 身をもちて
 大師のみの子と なるぞ嬉しき
 
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開創1201年の金剛峯寺(真言宗の総本山)
 
腕塚と高野山
順教は高野山の奥の院に、失ったかたの腕
を供養し、腕は無くても心の手をいただく
ことを祈願し、腕塚をつくる。
落されし 腕は高野の きりの中
 
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               奥の院の一の橋
 
徳富蘇峰と九度山町(大石順教、松山常次郎)
腕塚の文字は徳富蘇峰。大石よねの叔父は
蘇峰とは兄弟以上に親しかったとよねが記
す。
松山常次郎の長男望が、徳富蘇峰の孫娘静
子と結婚し、常次郎夫妻は徳富蘇峰宅を訪
ねている。
萱野家を度々たずね、寄留した順教と松山
家とは蘇峰を通して、お互いに知っていた
と推測。
 
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松山常次郎記念館 
 
 
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             旧萱野家(大石順教尼の記念館)
 
大石順教と仏光院
昭和11(1936)年、京都の勧修寺に
移住し、身障者の相談所「自在会」を設
立。
自分と同じ立場の身体障害者の自立を支
援し、昭和22年に仏光院を建立。
昭和43年、仏光院にて入滅、満80歳。
 
大石順教の最期の言葉
彼女は最後の別れの言葉を録音していた。
『幸せな人生でした。(みなさんが)
ずれ逝かれるところ、(わたくしが)案
内させていただきますが、それまで、ゆ
っくりと、大事になされてください。』と。

 

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4月16日