大阪から高野山の九度山町にゆく。
大阪から犬鳴山を越え、京奈和自動
車道で高野口ICで降り、道の駅に
は約1時間で着く。
高野山麓の紀の川
空海と九度山町
九度山町は高野山のふもとにあり、
空海(62歳)は高野山に真言密教
の道場として、金剛峯寺を創建する。
延喜21(921)年に醍醐天皇は高
野山を開いた空海に弘法大師の諡号
を授ける。日本に仏教をもちこんだ
空海の高野山の参詣客は今も絶える
ことがない。
慈尊院(和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832、万年山、本尊弥勒仏)
慈尊院
九度山町の慈尊院、丹生官省符神社は、
参詣道の高野山町石道によって高野山
と結ばれている。
空海の母が讃岐から高野山に来た。
が、七里四方が女人禁制のため、空海
はひと月に九度、20数kmに及ぶ山
道を下り、麓の政所の母を訪ねる。
よって、この辺りを「九度山」と呼び、
母がいたところに慈尊院が建てられた。
真田幸村と九度山町
関ヶ原の戦い後、真田幸村は父昌幸と
共に蟄居の身となり、以後14年間、
幸村は、九度山町で暮らす。
善名称院(別名真田庵、高野山真言宗、本尊地蔵菩薩、九度山1413)
豊臣秀頼の招きで真田幸村は大坂城に
入城し、慶長19(1614)年の冬の陣
で、真田丸城を築き徳川方を撃退。
翌年の夏の陣では、徳川家康の本陣を
突撃するが真田幸村は討死、亨年49歳。
死後、豊臣家に義を貫き、勇猛な武将と
して、軍記物や講談などで、真田幸村の
名将ぶりが伝えられる。
平山美知子と九度山町
美知子は九度山町出身。衆議院議員と
して24年間勤めた松山常次郎の長女。
芸術の道に進み、画家平山郁夫と結婚。
彼女は九度山町の観光大使となる。
平山美知子は、日米開戦防止などに努
めた父や家族のことを「或る家族の一
世紀」(シルクロード研究所)にて記す。
松山常次郎記念館
旧萱野家(大石順教尼の記念館)
大石順教と九度山町
波乱万丈の生涯の大石よね。
明治38年、養父の恐刃で一家6人が
倒れた大阪の堀江事件で、ただ1人両
腕落され生き残った堀江の名妓大石よ
ね。(17歳)
のちに彼女は口で書、絵画を描き、高
野山天徳院で得度し、名を大石順教と
改める。
出家した彼女がよく訪ね、寄留したの
が九度山町の「旧萱野家」。
彼女は、京都の勧修寺境内に身体障害
者福祉相談所を設立した。(48歳)
旧萱野家(大石順教尼の館)で彼女の
生涯をビデオで見たが、最期の言葉が
印象に残った。
『幸せな人生でした。いずれ逝かれる
ところ、案内させていただきますが、
それまで、ゆっくりと、大事になされ
てください。』と。
九度山町にゆき、ひとの生涯にふれた
が、あらためて、ふつうの今をありが
たいと思えた。
4月3日