あさ(波瑠)とはつ(宮崎あおい)の姉
妹は、母の葬儀を終え、東京から和歌山、
大阪に戻ったその翌年明治29(1896)
年春に始まる。
 
あさと大学校設立
あさは、大学校設立で東京と大阪を行き
来していた。
ときの総理大臣の伊藤博文に直接官邸に
行っ成澤(瀬戸康史)を大隈重信邸で綾
子夫人(松坂慶子)とあさは待っていた。
 
伊藤博文の生涯
伊藤博文は、長州(現山口県)に生まれ、
要職を歴任し初代内閣総理大臣(明治18
年)に就任し、4次(明治33年)にわた
伊藤内閣を発足後、ハルピン駅にて暗
殺された(明治42年)。
 
伊藤博文と吉田松陰
「今太閤」と呼ばれた伊藤利助は、
長州・周防国熊毛の極貧の家で生まれ
る。(天保12年・1841年)
ペリー来航で上宮田の陣営にいた博文
(16歳)は、萩藩・来原良蔵(木戸孝充
と縁戚)に松下村塾ヘゆく紹介書をもらう。
 
松陰は、藩庁を動かし、京都の政情の情
報収集をさせた。
そのメンバーに伊藤博文はじめ、山県小
輔(のちの有朋)らがいた。
松陰の紹介で、彼は、尊襄派の梁川星巌
(やながわせがん)、梅田雲浜頼三樹
三郎らと親交を結び、京都の探索をおこ
なった。
 
吉田松陰は、熊本の同志轟木武兵衛宛て
の添え書きに伊藤を記す。
『此の生は伊藤利輔(博文)と称する者
なり、胥徒(小役人)の末役なれども、
反って好んで吾が徒に従いて遊ぶ。
才劣り学おさなきも、質直にして華なし、
僕頗る之を愛す』(安政5・1858年10月)
 
伊藤博文と津田梅子
明治4(1871)年、伊藤は岩倉使節団
の一員としてアメリカにゆく。
伊藤が乗った船には幼い女子留学生が乗
船。
その一人が後に津田塾大学を創設する
12年後に伊藤は、帰国していた梅子と
再会。しばらく、伊藤の英語教師として、
自宅に梅子を住みこませた。
 
伊藤博文と東京女学館設立ー
伊藤は、海外にゆき、また津田梅子を
通して、
欧米人に劣らない日本女性の高等教育
の必要性を感じ、女子教育奨励会を発
足させ、自ら創立委員長を務めて
東京女学館を設立させる。(明治20
年、内閣総理大臣として)
 
伊藤博文と広岡浅子
浅子は三井家を通して伊藤博文と面識
があった。
義兄三井高喜三井銀行の株主総会で
総長に選任されたとき、宮内郷の職
にあった伊藤博文を別邸に招いてい
る。(明治13年)
浅子は明治25年には内閣総理大臣
伊藤の別邸「滄浪閣」を訪れている。
 
成瀬仁蔵と伊藤博文
成瀬仁蔵は、浅子に『一国の総理が
女子教育の必要性を認めれば』あと
は、おのずとみながついてくると言
われる。そして、
「総理大臣の伊藤を訪れて賛同を得
るように」と助言された。
仁蔵は、伊藤博文に会いにゆく。
 
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成澤(瀬戸康史)とあさ(波瑠)
大隈邸に戻ってきた成澤は、興奮していた。
面会させてもらえずにいたが、官邸前で、
馬車からおりてきた伊藤閣下に遭遇し、
協力しよう」といってくれたことをあさに
報告した。
 
和歌山のはつ(宮崎あおい)
一方、東京の母の葬儀から和歌山に戻っ
たはつ。
はつ(宮崎あおい)は、幼い頃に母から
「あなたは、きっと幸せになれる」とい
われた。
山王寺屋はつぶれ、夜逃げ同然で和歌山
へ来た。
はつは、惣兵衛(柄本佑)から、養之助
(西畑大吾)の祝言のときにと、家族み
んなで買った着物をおくられる。
はつは、みかんの香りが好きで、ここ有
田が山王寺屋だと言葉を残していった姑
に、惣兵衛を生んだ菊に感謝していた。
 
連続テレビ小説「あさが来た」は、波乱
万丈の展開、
新次郎、そしてあさは、人生の最期まで
描かれるのだろうか。
おわりが想像つかず、来週は「大番頭の
てのひら」で。
 
 
 
3月4日