山王寺屋(モデル天王寺屋)の眉山菊(萬田久子)、
菊の最後は決してみじめでなく、いい最期だった。
 
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菊と山王寺屋
菊は大坂の豪商山王寺屋の娘で、婿養子を
とった。明治維新で、両替商の山王寺屋は
つぶれ、夜逃げ同然で大坂から有田へ移っ
てきた。
 
菊とはつ
菊は、息子の嫁はつ(宮崎あおい)をいじ
めてきた。そのはつに、いい旦那さん・惣
兵衛(柄本佑)を産んでくれたことに感謝
され、涙ぐむ。
 
菊と孫
菊の夢は、山王寺屋の看板を大阪で再度、
かかげることで、あさ(波瑠)の加島屋で
商いに精をだす藍之助(森下大地)に夢を
託していた。
 
菊と有田の上山英一郎
ー幕末と英一郎ー
菊といえば除虫菊、蚊取り線香の「金鳥」。
「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の
創業者、上山英一郎(うえやまえいいちろう)
は、幕末、文久2(1862)に紀州有田(
現在有田市)に生まれている。
生家は大規模なミカン農家であった。
 
ー維新後と英一郎ー
慶応義塾で学び、体を壊し、有田に帰る。
明治18年、みかんの海外進出を志して
、上山商店を設立。同年、恩師福沢諭吉
の紹介でアメリカのH・E・アモアが、
上山家を訪問。
 
ー世界初の蚊取り線香を発明ー
アモアから除虫菊の種をもらい、山間部
でも栽培できる除虫菊を普及。仏壇線香
からヒントを得て、世界初の棒状の蚊取り
線香を開発。(明治23年)
さらに、妻ゆきから「渦巻状に」の助言
で、渦巻蚊取り線香が誕生(明治28年)
 
ー世界に広がった除虫菊ー
昭和10年代には、除虫菊の9割は日本で
生産、日本の輸出額の5%を占め、上山英
一郎(1862-)の夢は、日本だけでなく世
界にまで広まった。昭和18(1943)年永眠。
 
菊の山王寺屋
動けなくなった菊は、『ミカンは味もいいけ
ど、山にミカンが咲き、その香がいい。
大坂にいると、一生知らんと終わっただろう。
あの(有田の)山が山王寺屋で、ここ(有田)
が山王寺屋』だと。
 
最期の菊にほっとした。「終わり良ければ、
すべてよし」の菊だった。
 
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   土佐堀川の南側にある大日本除虫菊本社(大阪市西区土佐堀1丁目)
 
2月26日