「あさが来た」(第69回)
新次郎はあさに謝った。
炭坑の爆破事故は自分のせいだと幼い頃
のことを語る。
10歳のとき、仲よしだったサトシに「人
殺し!」と言われた。
番頭で暖簾分けしてもらったサトシの父親
が加野屋に借金にきたとき、貸さなかった
たためだった。

正吉が栄三郎に言う。
男のくせに、涙ぐみ、気の弱い栄三郎。
深い傷を負い、商いを毛嫌いする養子に
出した新次郎。
(「目の上のタンコブ」と思う)しっか
り者の嫁、あさ。
どんなときでも、三人が手をたずさえ、
加野屋の危機を乗り越えてほしいという。
大阪の豪商・鴻池善右衛門
ー維新から明治ー
維新で、大阪の両替商が全滅するなか、
加島屋(加野屋のモデル)と同じく残った
豪商鴻池とは?

今橋通りにあった天王寺屋の隣の豪商鴻池

弘化改正大坂細見圖・弘化2年(1845)

廃藩置県(明治4年)と鴻池善右衛門
幕末の鴻池は、河内國の湿地帯200町歩
(60万坪)を開墾し、農民から小作料を
徴収した膨大な資産があり、廃藩置県の大
名貸帳消しでも何んとか切りぬけた。


明治13年 大日本新持丸長者番付け(鴻池善右衛門)
のち、鴻池善右衛門(11代)は、土地、現
金類を運用し、同族山中家の身内だけで、第
十三国立銀行を設立し、大阪倉庫を創立し、
日本生命保険の社長になった。
三井家と何重にも縁戚関係を結びはしたが、
銀行、倉庫、保険などの蔵元両替商の事業
にとどまり、製造産業に着手しなかったた
めか、財閥ができず、富豪にとどまった。
なお、第二次世界大戦後、鴻池新田は解放
され、長者の世界から姿を消した。

鴻池本宅跡(中央区今橋2丁目)
加野屋(モデル加島屋)の後見人の新次郎は、
サトシを連れて加野屋へ。ここから、明日
につづく。
12月14日