「あさが来た」ではあさの祖父が危篤で、
あさ姉妹は京の家に帰ってきた。
あさ姉妹の今井家は、三井家をモデルに。
三井家の祖は、豪商三井家を築いた上方の
伊勢商人の三井高利。
高利は現在の三越・旧三井財閥の祖である。
新たな商法(訪問販売から大店)
三井高利は江戸の日本橋に先駆けて進出し
た(1673年)。
これまで呉服店は、武家屋敷を顧客に、風
呂敷包みに包み、訪問販売していたが、通
行人が店頭で、現金で安く買える掛け値な
しの店先売りの商法にかえた。
旧来の常識ををくつがえす商法により、三井
は急成長を遂げ、「大店(おおだな)」と呼
ぶ大型商店を生み出す契機になる。
三井家の暖簾と家訓
伊勢の本店に経営者がおり、江戸店の経営は
番頭などに任せていた。
呉服店越後屋の暖簾は、三井高利が「丸に井
ゲタ三文字」を使い始める。(1677年)
丸は天、井ゲタは地、三は人を表し「天知人」
の三方、三井の商いが、井桁のなかの三(ひ
と)によって、広大な地域に及ぶことを意味
する。
土佐堀川に架かる土佐堀橋南詰に「丸に井ゲタ
三文字」の三井倉庫(写真右端)
三井倉庫はかつての薩摩藩蔵屋敷の地、維新後
各藩の蔵屋敷は民間に払いさげられる
亡き父高利の遺言をもとに高平は家法「宗竺
(そうちく)遺書」を定め、明治33(190
0)年に「三井家憲」が制定されるまで守られ
る。
三井高利(1622-1694)以降の三井一族は、
呉服商と両替商を軸に商いを広げ、のちの三
井財閥のもとを築いた。
京の三井家
広岡浅子の父は「三井十一家」の一家で、三井
浅子の生家は、京都府庁の西、油小路通り出水
界隈にあった。
大坂の三井
創業者の三井高利は、元禄4(1691)年大坂
で両替商を営む。
江戸時代初期より、三都をまたぐ大店の幕府の
御用商人で、大坂の堺筋に越後屋三井呉服店(
現三越百貨店)を構えていた。
大坂の三井家別荘
大坂の三井家別荘は過書町にあり、京から姉妹
が大坂に嫁ぐとき、しばしの屋敷となる。
当時、緒方洪庵が弘化2(1845)年に瓦町か
ら町家を購入し移った、現在も残っている適塾
の場所が過書町。
過書町(のちの地名が東区北浜3丁目→現中央
区今橋3丁目)の三井別荘は適塾界隈にあった。
灘波橋(ナニワバシ)南詰辺りの三井呉服店は、
大塩平八郎の乱で豪商宅が砲撃を受け、鴻池屋
などとともに、全焼した。(1838年)
ー維新政府と三井家ー
大政奉還(慶応3年・1867.10月)の直後、
御用達の三井は、率先して1000両を貢納
し、この時期から三井の新政府を支援した。
翌年、1月29日に新政府は、京都二条城に、
京阪の名だたる豪商130人をあつめ、江戸
幕府を攻める300万両の軍用金の調達・献
金を命じた。
京都二条城
三井三郎助、鴻池善右衛門をはじめ名だ
たる豪商・富商は、地租が担保とはいえ
桁違いのこの金額に応じる。
この難局にあたったのが、三井総領家三
井八郎右衛門高福(たかよし)とその嗣
子高朗(たかあき)である。
その後、三井越後屋は財政不安定な新政
府の東征軍の戦費調に役割を果たし、以
後新政府のもとで、三井家は飛躍するこ
とになる。
11月14日