五代友厚は、灘波橋南詰の大阪証券取引所前に
銅像として立っている。
『明治の大阪の指導者として右に出る人はいない』と
大阪の作家織田作之助が語る五代友厚。
「おもしろき もなきこの世を おもしろく」の高杉晋作に劣らず、
剛毅な五代は、維新後も屋敷内に3人の側室をおき、
財界で活躍したが最期は借金を残す波乱万丈の50歳の生涯だった。

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 難波橋南詰の大阪証券取引所(旧大阪株式取引所)前の五代友厚像
 
友厚(27歳)ー高杉晋作と上海にゆくー
友厚は、晋作らと上海へ渡る。
1862(文久2)年幕府は、貿易調査のために上海へ使節を派遣した。
これに便乗したのが、長州、薩摩、佐賀の三藩で、
長州藩は高杉晋作(のち奇兵隊創設・討幕)、
佐賀藩は中牟田倉之助(のち明治海軍の創設者)、
薩摩藩は、五代才助(友厚)を長崎に常駐させ、
貿易官にするため彼を選ぶが、派遣される旗本たちの従者にさえなれず、
侍姿をすてて、長崎出航の千歳丸の炊事夫に化けて乗りこんだ。
千歳丸は、幕府に船を売った船長以下14人の英国人が乗り、
上海を往復した。

友厚(32歳)ー坂本龍馬の「いろは丸事件」の仲介ー 
1867(慶応3)年明治新政府の御納戸奉公格として商事面を担当し、
坂本龍馬の「いろは丸事件」の仲介をした。
5月26日、海援隊のいろは丸が紀州藩船明光丸と衝突して沈没する。
友厚は、長崎にて土佐藩と紀州藩交渉の仲介をし、
紀州藩に賠償金を支払わせた。

友厚(33歳)ー「堺事件」を調停ー
慶応4(1868)年、五代友厚は外国事務局判事として「堺事件」を調停。
「堺事件」は戊辰戦争の最中、将軍慶喜は船で大坂城から江戸に撤退し、
大坂は混乱に陥り、新政府が、薩摩藩を大坂に、土佐藩を堺に配属し、
治安にあたらせていた時期。
 
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           堺事件の当時の状況を描いた想像図

2月15日にフランス戦艦デェプレックス号は堺港沖合で停泊。
船艦の乗組兵ら23名がランチで着岸し、
その内2名が防波堤の上を歩きだし、
警備にあたっていた土佐藩士が尋問しようとしたが、言葉が通じず、
ふたりはランチに向かって走り出したため、
近くの旭茶屋から出てきた者を含め、
二、三十名の武士がフランス兵をいっせい射撃。
結局、フランス側は死者11名、負傷者5名、日本側の死傷者は皆無。
フランス公使レオン・ロッシュの抗議により、
1月11日に起こった神戸事件に準じて、
2月23日、妙国寺にて土佐藩士20名の処刑がとり行われた。

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      土佐藩士の処刑があった妙国寺境内の「土佐藩十一烈士之英霊」
      明治政府を代表し、処刑の立会人を務めた五代友厚
      妙国寺(現大阪府堺市堺区材木町東4丁1-4)

両国の立会いのもと、切腹が午後4時頃から始まる。
箕浦猪之吉は、藩主よりの白衣を着て、白布で覆われた畳の上に座り、
上半身を開け、白木の三宝に載せた短刀を取り、
左脇腹に深く刺して右側にひき、
その一瞬介錯人は首をめがけ太刀を振り下ろし、死体に礼をして退く。
切腹はこうして順次行われたが、11人の切腹を見届けたところで
デェプレックス号の艦長デュ・プティ・トアールは
外国局判事五代友厚(才助)に処刑の中止を申し入れ、
結果として9名が助命され、死体は宝珠院に埋葬され、
残る9人は後日、朝命により土佐で流罪となりました。

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友厚(38歳)ー「大阪会議」の裏方ー
明治6年、明治政府は、「征韓論」を巡り、
西郷隆盛や板垣退助が下野する。
 
イメージ 3明治8年2月、台湾出兵で下野した木戸孝充、征韓論で政府を去った板垣退助を混迷する政局打開のために、
井上馨、伊藤博文が仲介役を務め、
大久保利通が企画した「大阪会議」(北浜の料亭・加賀伊)がもたれる。
木戸は、舞台となった料亭・加賀伊(かがい)の店名の改名を提案し、
以後「花外桜」と呼ぶ。
 このとき、五代友厚は50日間にわたって大久保に自宅を宿として提供し、
木戸孝充や板垣退助、伊藤博文、井上馨と連絡をとりかわした。
大久保は立憲政体、三権分立、二院制議会を認め、木戸は復帰し、
板垣は協力する方向に転じる。

三権分立、漸次立憲合意に至る大阪会議の「花外桜」(大阪市中央区北浜)
上段左から大久保利通、木戸孝充、板垣退助
下段左から伊藤博文、井上薫

の後、友厚は大久保の殖産興業政策・財政政策で
いろいろな建議をおこない、
大久保の「智恵袋」として知られるようになる。

友厚(43歳)ー大阪商法会議所(現大阪商工会議所)設立
明治11(1878)年、友厚は、同業者の組合での取り決めにとどまらず、
他業種も含めた商業・流通の近代化を目指した組織の必要性を感じ、
大阪商法会議所(現大阪商工会議所)を設立し、初代会長として
政府との太いパイプ役を務める。
翌明治12(1879)年、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)を設立し、
売買取引が始まる。

明治14年「明治14年の政変」を導く開拓使払い下げ事件が起こる。
大阪商人らと「関西貿易商社」を設立後、破格の条件での払い下げが公表され、
北海道開拓使長黒田清隆と五代の結び付きが非難浴びる。
政府内でも大隈重信、佐野常民らが反対、
在野では福沢諭吉ら民権論者が呼応。払い下げは中止となる。

友厚(50歳)ー「墓は大阪にしてくれ」ー
五代友厚は現在の大阪経済の礎を築いたが、
蓄財は無く、百万円の借金を残し、病により50歳の若さで
「墓は大阪にしてくれ」と言い残し、
1885(明治18)年9月25日に東京築地の別邸で永眠、
墓は大阪市内(阿倍野区)に葬られる。

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難波橋南詰、北浜の大阪証券取引所

五代友厚と大阪
 1835(天保 6)年  12月26日、五代友厚誕生、通称才助。
1853(嘉永 6)年  6月ペリーアメリカ艦隊、浦賀上陸
1857(安政 4)年  五代友厚、長崎遊学を命ぜられる。
1858(安政 5)年   日米修好通商条約締結
1862(文久 2)年   五代友厚、高杉晋作(長州藩)らと上海へ赴く。
1863(文久 3)年  5月生麦事件を契機に薩英戦争勃発。英国側に敗れる。
               五代友厚、寺島宗則とともにイギリスの捕虜となる。
               8月18日公武合体派、長州藩勢力を京都から追放
1864(元治 元)年  禁門の変(蛤御門の変)が勃発、              
1865(慶応 元)年  5月坂本竜馬と 西郷隆盛が面談。木戸、長州に帰国。             
1866(慶応 2)年   西郷、長州藩士木戸と会い、薩長同盟を結ぶ。
               第2次長州征伐が行われる。光明天皇卒。
1867(慶応 3)年   5月26日、坂本龍馬のいろは丸が紀州藩船と衝突。
                 五代友厚の仲介で、紀州藩は賠償金を支払う。
               10月14日徳川慶喜大政を奉還。(江戸幕府滅びる)
               12月9日王政復古の大号令。
1868(慶応 4)年  鳥羽・伏見で薩長土軍と旧幕府軍衝突。戊辰(ぼしん)戦争
              1月 3日会津藩、薩摩・長州藩と開戦
              2月15日堺事件
                五代友厚は外国事務局判事として「堺事件」を調停。
              3月14日「五条の御誓文」を発表
1868(明治 元)年 9月8日明治と改正、元号を一世一元制と決める。
              五代は初代大阪税関長に就任し、
                   政府に大阪造幣局の設置を進言。
1869(明治 2)年   戊辰戦争終結。
1873(明治 6)年    10月岩倉、大久保らと西郷対立。(明治6年の政変)
                大久保利通、内務省設置。
1875(明治 8)年     2月「花外桜」で大阪会議
               (大久保、木戸、板垣、井上、伊藤)
1878(明治11)年   5月14日大久保利通、紀尾井阪にて暗殺される47歳卒。
               五代友厚、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)を設立。
1878(明治12)年   五代友厚、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)を設立、
               売買取引をはじめる。
1881(明治14)年   10月大隈重信、政府から追放される。
               (明治14年の政変)
1885(明治18)年   9月五代友厚、50歳卒。


8月14日