大阪(熊取)から直島(香川県)を
訪ねる。
かつてこの島は崇徳帝の配流の地で、
現在の安藤忠雄氏が関わった
アートの島である。
 
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崇徳帝の霊と中瑞雲斎
保元の乱で京都から讃岐に配流さ
れた崇徳帝。
700年後明治のはじめに、崇徳帝
の霊は京都の白峯神社に遷還され
ることになる。
大阪(現大阪府泉南郡熊取町)の
中瑞雲斎は、讃岐の金比羅宮から
の帰路、直島に漂着し、これが崇
徳帝遷還を実現させる契機となる。
 
中瑞雲斎
吉田松陰は中瑞雲斎を嘉永6(18
53)年3月3日より3日間滞在し
ている。
3ヶ月後浦賀にペリーの黒船4隻
が来航し、これ以後日本は、開国
を巡り幕末時代に入る。
 
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松陰と中家屋敷の中瑞雲斎(嘉永6(1853)年)
       
中瑞雲斎
彼は根来寺(紀州)出身で旗本根
から中家の養子になる。
中家(和泉国御門)は、岸和田藩の
七人庄屋で、瑞雲斎は幕末に尊王攘
夷の活動家として京に滞在する。
彼の随筆「窓廼独許登(まとのひと
りこと)」によると、当時の日本
国家の危機的状況は、「怨霊」や「
妖魔」に仕業で、夷敵(いてき)を
駆逐し、西洋的な影響を排除し、
夷の実行と祭祀を政治と結びつける
体制を描いていた。
 
中瑞雲斎と直島
文久3(1863)年に瑞雲斎は長
男莞爾と国学者藤原春根と3人で
徳帝の旧跡を訪ねる旅に出る。
讃岐の旅の目的は、孝明天皇が憂慮
すると想像する幕末の状況は、「皆
々容易ならぬ」、これも「崇徳天皇
御怒」で、「讃州二天皇御子孫」を
相応の官録を成し下され」ば、
皇の神霊を慰め、社会不安を解消で
ると建白書にも記されていた。
 
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直島の琴弾地浜と海岸
 
金比羅宮(香川県琴平町)に参詣し、
泉州熊取に帰る時、直島の沖合で潮流
が逆になり、直島に漂着する。
 
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京の山から望む本村港のある街並み
 
直島には、崇徳帝の子孫と名乗る
三宅家があり、三宅家は崇徳帝を
祀っていた。
 
直島と崇徳帝
崇徳上皇は保元の乱で敗れ、保元
元年7月讃岐へ配流され、はじめ
松山の御堂(高遠の堂)にはいり、
のち直島に建てた御所に移り、そ
の後長寛2(1164)年8月鼓
岡(現坂出市)で没し、白峰(し
ろみね)山上の白峯寺近くに葬ら
れる。
崇徳上皇の船が着岸したのは直島
の東海岸の高田浦(本村)の南東
の湾入部の積浦で、「田畑人家数
多あり」と記される。
 
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   崇徳院が五部の大乗教を書写した直島(積浦)の御籠(おこもり)。
 
「保元物語」によると、『彼島(直
島)は陸地より押渡事二時計也、
畑もなければ住民の梄(ゆう)もな
し、殊(こと)けふとき所也、四分
一より遙にせばく、築地をつき、中
に屋一建て門一立たり』とある。
 
直島と三宅氏
直島は、崇徳上皇の落胤、三宅左京
大夫源重行が当地を領し戦国期に及
ぶが、天正10(1582)年に毛利
と戦う羽柴秀吉の備中高松攻めで功
のあった家臣高原次年に、秀吉は、
直島諸島を与えたために三宅氏は
浪人となる。
その後は、高原氏が直島を領し、寛
文11(1671)年末に高原仲頼は
改易され、高原氏の支配は終わる。
寛文12(1672)年幕府領に
編入された直島は、備中倉敷代官所
支配となる。
 
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直島の「おおみやけ」の三宅邸
 
代官彦坂義重によって、三宅三郎
兵衛の直島永住が認められ、以後
三宅氏は、明治4(1871)年
まで直島の庄屋を勤める。
 
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直島(積浦)山上にある寛文4(1664)年遷宮の崇徳天皇神社
 
極楽寺背後の八幡山(城山)に八
幡神社があるが、崇徳上皇の落胤、
三宅左京大夫重行の六世孫但馬守
源行信が、この神社辺りに城をは
じめて築き、戦国期ー江戸初期に
は、高原氏が居城とする。
江戸時代の社僧は極楽寺、社人は
三宅氏。
崇徳天皇神社は、積浦の山上にあ
り、崇徳天皇を祀り、神体は崇徳
上皇と伝える木像で、寛文4年に
高原氏が現在地に遷宮したという。
 
中瑞雲斎の遷還と三宅家
直島に漂着し、三宅家を崇徳天皇
の子孫と確信した瑞雲斎は、京都
に移り活動。
国の安泰は徳帝怨霊鎮魂と三宅
家の再興で実現できると考え、
白書を書き、つてを頼り上奏した
幕末期に三宅家を崇徳天皇の子孫
とみとめるか否かについて、朝廷
の国学者谷森義臣と瑞雲斎の議論
となる。結果、朝廷から『真実は
うであれ、崇徳帝の御手彫りの
木像だとつたえられるものがあれ
ば、祀ればよい。』という意見が
あったと瑞雲斎記す。
徳院崩御の705年めの忌日、慶応
4年8月26日、讃岐国(香川県)
の白峰御陵で奉迎の神霊式がもた
れ、瑞雲斎が奉上した祝詞を要約
する。
『讃岐国阿野郡白峯の山陵に鎮ま
崇徳天皇の前で恐れながら申し
上げます。保元の年頃、忌々しい
ことがおき、海路をはるばるこの
国に行幸され、うっぷんのなかに
崩御されましたことは、最も畏れ
多く悲しみのきわみです。(明治)
天皇はいつも心を痛めています。
先帝(光明天皇)の叡慮(えいり
ょ)、天皇の考えによりそのこ
を果たすつもりでしたが先帝がこ
の世を去りましたので、この度意
志を引き継ぎ、尊霊を迎え奉り、
積憤を和らげ差し上げ存じます。
(以下省略)』
明治政府は、明治元(1868)年
9月4日に、崇徳帝の神霊を京都
に遷還する。
瑞雲斎をその「御用掛」に任命さ
れ、遷還した霊は、京都の白峯神
社に祀られる。
 
 
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慶応4(1868)年に崇徳上皇の御影堂(香川県坂出市)の神像
京都の現在地に移して創建した白峯神宮(京都市上京区)。
 
三宅家の三宅源左衛門と息子
三郎は、この神社の神官として
登用され、三宅方三郎は明治4
3(1910)年まで京都の白峯
神社の禰宜(ねぎ)をつとめた。
崇徳天皇の流罪は、朝廷が武家
に支配されたはじめての出来事
で、文学にも取り入れられ、
廷の権威失墜の象徴であったが、
崇徳帝遷還は王政復古を示す行
事のひとつになった。
 
崇徳帝と中瑞雲斎 
平安時代 
1124(天治元)年    崇徳天皇即位(5歳)
1127(大治2)年    璋子(26歳) 第4皇子を誕生、雅仁親王。
               (後に後白河天皇)
1129(大治4)年    白河法皇(77歳)が崩御。(璋子28歳)
1141(永治元)年    崇徳退位、近衛帝即位(3歳)
1145(久安元)年    待賢門院璋子崩御(44歳)
1155(久寿元)年    後白河天皇即位。(28歳)
1156(久寿2)年    鳥羽法皇死去。(後白河帝30歳)
                崇徳上皇(37歳)と後白河天皇の対立
                保元の乱
                崇徳上皇は讃岐に流される                   
1159(平治元)年    平治の乱(後白河帝33歳、)
1164(長寛2)年    崇徳帝、配流地讃岐国で死去(55歳)
1185(文治元)年    平氏滅亡(後白河帝59歳)
1192(建久3)年    後白河法皇死去(66歳)
江戸時代
1807(文化 4)年    中 瑞雲斎誕生
1853(嘉永 6)年    吉田松陰(23歳)が中家(中瑞雲斎)を訪問(3月)
               ペリー上陸(6月)松陰、浦賀に行く。
1858(安政 5)年    日米修好通商条約締結
1859(安政 6)年    安政大獄、吉田松陰没(10月)
1860(安政 7)年    桜田門外の変
1861(万延 2)年    水戸浪士2人、熊取谷に立ち寄る
1863(文久 3)年    中瑞雲斎(57歳)・長男莞爾が讃岐へ。           
1864(元治 元)年   中瑞雲斎上京
1866(慶応 2)年    熊取の村むら困窮のため藩に歎願書出す。
                 岸和田藩朝廷方につく。
1867(慶応 3)年    大政奉還、江戸幕府滅びる
1868(慶応 4)年    戊辰(ぼしん)戦争(1868.1~1869.5)
              8月26日讃岐国(香川県)の白峰御陵で奉迎の神霊式
明治時代
1868(明治 元)年  9月明治に改元、
               9月4日崇徳帝の神霊、京都に遷還(「御用掛」に瑞雲斎