奈良の五條、幕末に吉田松陰が森田節斎を
訪ねる。のち節斎は松陰を従え、五條から富田林
を経て、熊取(和泉)の中瑞雲斎宅へゆく。
 
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       中瑞雲斎46歳(1807-1871)     吉田松陰23歳(1830-1859)
 
<富田林(佐渡屋宅)>
松陰は五條にきた。ところが、節斎は、早々、
翌日には富田林に出向かわなくてはならなかった。
 
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富田林寺内町の仲村家付近から見る石川、二上山、金剛山。
 
というのは、昨年末、佐渡屋徳兵衛家(仲村家)では、
泉州熊取の岸和田藩大庄屋中家の中瑞雲斎の長女
ゆうが富田林仲村家に嫁ぎ、両家とのいきちがいが
でき、複雑な事情が生まれていた。そこで、仲村家
佐渡屋)では、中家当主中瑞雲斎(中左近)とも面
識がある大和五条の森田節斎に調停を依頼していた。
 
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富田林の佐渡屋(仲村家)宅
 
当時、佐渡屋徳兵衛宅で、松陰を給仕していた仲村
家(佐渡屋)の次男徳治郎(25歳)、隣の家(隠居所)
の喜田万右衛門の孫の水郡善之祐、近くに塾を構え
ていた辻幾之助、この3人が10年後に河内勢の天誅
組として参加する。なお、徳治郎は天誅組本体の水郡
一行とはぐれ、生家に戻り、維新後は、分家して79歳
の生涯をまっとうする。
明治にはいり、仲村家当主一郎は、初代富田林村村
長(明治22年・1889年)になる。森田節斎は、天誅組
の扇動者だったが参加せず、幕府から逃げ、明治元
年の新政府ができた後に亡くなる。
 
<中瑞雲斎と五條>
中瑞雲斎と五條。
中瑞雲斎は、奈良(宇智郡)で大砲を試射する。
 
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吉野川に架かる大川橋の南(宇智郡の南部)に旗本根来家の知行所
 
嘉永年間(0848-1853)に彼は海防策を講じ、南部藩士
大島高任(たかとう)を熊取に招き、小砲13個を鋳造し、
旗本根来氏の領地の大和国宇智郡丹原(現五條市丹
原町)にあった紫雲山祥禅寺の境内で試射し、和泉国岸
和田藩のとがめを受ける。この試射は近畿地方での洋砲
発射のさきがけとなる。
 
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大和国宇智郡丹原村(現五條市丹原町)で試射した大砲。
 
<五條代官所ー幕府領と旗本領ー>
天誅組は、五條の幕府の代官所を攻撃し、代官所
を焼き払い、役人たちをさらし首にし、桜井寺を本
陣として、五條を一時的に朝廷領とした。
 
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五條桜井寺の本陣跡碑石・代官鈴木源内の首を洗った首洗鉢
 
幕府は約40日で天誅組を平定し、その後幕府は、
五條代官所(現在の五條市役所)の場所から新た
に西側の新町の地に移し五條代官所を再建する。
 
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天誅組の変の翌年、元治元(1864)年に建てた五條代官所(明治初期)
    
 
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            正門を残す長屋門の五條代官所。明治3年に五條県庁。
            現在民俗資料館 休館日月曜日☎0747-22-0450
 
明治初年五條村を含む宇智郡60村は幕府領、旗本領
で占め、内30村の幕府領を五條代官所が直接管轄し、
残りを旗本が知行所として治めていた。中瑞雲斎の中家
は、江戸の根来家に代わり、丹波村(現在五條市丹原町)
など9ヵ村(火打、黒駒、八田、大津、大野、大深、生子、
田殿)を治めていた。
 
 
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中瑞雲斎は、旗本根来家の出身の中家の養子になり、
根来家と中家は縁戚関係にあった。根来家の初代根来
盛重は中家から根来寺の成真院の養子となり、秀吉の
根来攻めに敗れた後、家康のもとで、関ヶ原の戦いで活
躍後に旗本になる。
 
 
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       秀吉の根来攻めと難攻不落の積善寺城の根来盛重
 
奈良の五條には、旗本根来家の知行所があり、
尊王攘夷の思想家森田節斎がおり、中瑞雲斎と
森田節斎とはたがいに面識があったようだ。
 
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6月17日