岸和田の梅渓寺、圓教寺を訪ねる。
寛永17(1640)年以後岡部氏が岸和田
藩主となり、岡部氏が代々つづき、明治
維新まで泉州地域を治める。
 
<江戸時代の幕府・藩と領民>
泉州(岸和田以南)地域は、ほとんど岸和
田藩の領地だった。
江戸時代以降宗教の信仰、活動は、幕府の
とで家の宗教が決められ、家は寺、寺は
本山、本山は幕府に組みこまれ統制される。
本山をもたない寺院は無く、すべて本山の
末寺となり、領民は、旅行・結婚等は寺請
が必要とされ、亡くなると檀那寺に葬られる。
<初代岡部宣勝と梅渓寺>
寛永17(1640)年、初代藩主岡部氏は摂津
高槻から岸和田藩主として6万石で入城する。
のとき、宣勝は母の位牌等をうつし、墓碑
を梅渓寺に建てる。
 
 
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岡部家初代岸和田藩主の母(家康の姪)の墓碑がある梅渓寺
 
岡部宣勝(1597-1668)の父長盛の妻は徳川
家康の妹に准じる洞仙院として、墓碑がたてら
れている。
初代岡部宣勝の妻は、母が松平康元の娘で、
元は家康の異父弟で、家康とは縁戚関係になる。
 
泉州熊取には曹洞宗梅渓寺の末寺が4つある。
正法寺(小垣内)、法願寺(朝代)、来迎寺(和
田)、西方寺(成合)と四ヵ寺があり、熊取に
13ヵ寺あるが、その内4ヵ寺が梅渓寺の末寺で
ある。
 
<初代岡部宣勝と円教寺>
 
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圓教寺(日蓮宗、岸和田市五軒屋町7-9)
 
岡部宣勝が入城の際。前任の松平氏時代に
藩の石高が、5万石から6万石へ増高される。
領地が同じで領民の負担が重くなり、その
軽減を求めて領内108ヵ村の百姓たちが
訴に及んだ。
彼らは、岸和田城の堺口御門に宣勝一行
待ち受け、1万石の年貢減免を嘆願する。
このとき群衆の主たる者を投獄し、農民の
窮状を詳しく訴えた首謀者を津田川の刑場
で斬首の刑に処した。
刑に処せられた首謀者の死後160年後に同
刑場に有志により碑が建立される。
 
 
岡部氏に強訴し、斬首の刑に処された人の墓碑
 
その後明治32(1899)年に円教寺(日蓮宗、
五軒屋町)の境内に移される。
墓碑の由緒によると斬首の刑に処せられたのは、
岸和田の沼村庄屋川崎久左衛門であった。
 
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円教寺境内の沼村庄屋川崎久左衛門の墓碑
 
岸和田藩(「七人庄屋」)
これに対し、藩主岡部宣勝は総石高から3000石
を減免し、村々に減免分を割り当て一揆を未然に
防いだ。
次いで、岡部宣勝は領内全地域から、地区をとり
治める七人を採用。
各地区ごとにおかれた七人は、「大庄屋」七人衆
と称せられ、郡代の民政諮問に応じる職であった。
苗字帯刀を免許されて毎月数日鄕会所(ごうかい
しょ)に出勤する。
 
(郷士代官)    熊取   中 左近   中氏       
(同    )   熊取   中 左太夫  降井氏   
(代官庄屋)   岸和田    岸久左衛門  岸氏      
(筆頭庄屋)   佐野   藤田十郎太夫 藤田氏
(同    )  佐野     吉田久左衛門 吉田氏
        樽井   脇田右馬太郎 
        畠中    要源太夫
 
泉州地域は、岡部宣勝以来、明治維新に至る
まで岡部氏の統治をうけ、七人衆は近世を通
じて変わることはなくつづいた。
 
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          正保期和泉国所領配置図(正保期1644-1648)
 
安土・桃山時代                
1583(天正11)年  
羽柴秀吉、家臣中村一氏を岸和田城主とする。
1585(天正13)年  
岸和田城合戦(3月)
秀吉軍と根来衆和泉近木川付近にて合戦(3月20日)
秀吉軍の根来攻め(8月)             
羽柴秀吉、中村一氏を近江水口へ移し、
小出秀政を城主とする。            
1586(天正14)年  
岸和田藩領内検地          
1587(天正15)年  
小出秀政1万石の大名になる。
1597(慶長 2)年 
 岸和田城完成(文禄4年.1595年城主小出秀政起工)
1600(慶長 5)年  
関ヶ原の戦い 小出秀政が円教寺建立
 
江戸時代
1603(慶長 8)年  
徳川家康、江戸幕府開く。
1605(慶長10)年  
徳川秀忠、2代将軍就任。
1614(慶長19)年  
大坂の冬の陣
1615(慶長20)年  
根来盛重 日根郡29ヵ村の和泉代官(-1619)
大坂夏の陣 豊臣氏滅亡             
1619(元和 5)年  
小出吉英、但馬国出石に転封。
松平康重、岸和田藩主となる。
根来盛重、大鳥・和泉・南郡の地の代官(-1641)
島原の乱
1640(寛永17)年  
松平康重没。松平康英襲封、播磨国山崎へ転封。
岡部宣勝岸和田藩主となる(6万石)。
領内108ヵ村農民、1万石の増高取消しを求
めて強訴。
熊取谷の中左近、降井左太夫が岸和田藩の
大庄屋7人衆
 
岡部宣勝が入城以後、岡部氏十三代がつづき、
明治維新をむかえる。
 
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1月29日