テレビの「花燃ゆ」、小説の「吉
田松陰」(山岡荘八著)、「世に
凄む日日」(司馬遼太郎著)は、
いずれも吉田松陰をとりあげたド
ラマである。
ドラマ(テレビ、小説)の作品は、
その主題により描き方が違い、ま
た、観るひとの関心により見方が
かわってくる。
ここでは、吉田松陰をとりあげた
小説を紹介し、ドラマ「花燃ゆ」
について記す。
NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」(第4回)
作品の「テーマ」。
山岡荘八は、「吉田松陰」で、吉
田松陰の思想を読者に伝えている。
司馬遼太郎は、長州藩とは、長州
人とはということで、「世に凄む
日日」で松陰を描いている。
「花燃ゆ」は、妹の文を主人公に
し、松陰で家族の絆をドラマにし
ている。
「花燃ゆ」
遊学中に藩の許しを得ず、東北沿
岸の旅にでた寅次郎は武士の身分
をはずされ、父百合之介の「育み
」の身柄となる。
黒船、江戸に来航の年、嘉永6(
1863)年のこと。
父杉百合之介は長州藩主・毛利敬
親に願い出、10年間の遊学を許
される。
寅次郎は江戸へ(三度めの)の旅
の途上、国許へ御法度の建白書を
出す。
萩に帰った松陰は、兄梅太郎に、
これからは10年間許された遊学
中学問に専心すると約束する。
されど、翌年嘉永7年、国禁を破
り、黒船に乗り込んだ。
ぺルリが寛大な処分の訴えで国許
で蟄居。
父の切腹の願いはさし戻され、野山
獄につながれる。
松陰は、行いが伴ってこそ、知識は
意味があるのだと、「知行合一」を
唱え、脱藩、建白書、国禁と行動に
移すが、その度に家族は心配し、何
ができるかと、家族の松陰への想い
を「花燃ゆ」は描く。
山岡荘八の「吉田松陰」
長州藩、毛利藩主の兵学は山鹿流で、
その師範の吉田家を継いだ松陰は6
歳から玉木文之進から学び、実学の
祖山鹿素行を尊び、赤穂義士と結び
つけて「忠とは何か」を考え、生涯
行動する。
佐久間象山の影響を受けた松陰は、
象山の
『いながらにして軍艦を買うのは
愚かで、外国にひとをやって、そ
の操法を学ぶべし』が、国禁を侵
して黒船に乗る動機としている。
山岡荘八は松陰を
「日本は神国なりと、固く信じて
疑わなかった尊王攘夷家であった」
という。
司馬遼太郎の「世に凄む日日」
松陰は黒船に乗り込み、下田で
自首。
牢名主に「なにをしたのだ」と
問われ、松陰がこの行動の理由
を話すくだり。
世の事を処するや、ひとは、まず物
を見るべきで、
『夷敵の国を見ることである。五大
州を探索して国家の舵の方角をさだ
めねばならぬ。(略)しかし、死を
恐れては国家はすくうべかざる危機
におちる、されば渡海をこころみた』
というと、ー衆みな感激す。
と松陰は書いている。
松陰は、天皇崇拝主義の先端的な
指導者で、将軍の権威などは浮世
の仮のもので、牢名主に『西南に
背を向けてすわっておられる』と
言い、
『西南にあたる京には天子がおわ
す。神洲に生をうける者にして天
子に背を向けて座すのは人にあら
ず、禽獣(きんじゅう)である』
と言った。
テレビドラマ「花燃ゆ」は、小
説の「吉田松陰」(山岡荘八著)、
「世に凄む日日」(司馬遼太郎
著)とは違い、この時代に、も
っとも天皇崇拝者であった松陰
を描かないで、家族をテーマに
したドラマにしています。
わたしは、「花燃ゆ」の世界に
はいり、わたしの見方でドラマ
を観ています。
ドラマって、いいですね。
ところで、松陰は、嘉永7(1
954)年12月24日長州萩に
帰り、萩城下の野山に在る獄に
入れられた。
次回「花燃ゆ」は、密航に失敗し
た寅次郎の野山獄からはじまる。
1月22日