大阪の正法寺。
正法寺(曹洞宗)は岸和田藩主が再建し
た曹洞宗梅渓寺の末寺で、岸和田藩領内
の108ヵ村の農民が藩主の厳しいとり
たてに強訴した泉州地域の一角になる。
 
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         岸和田藩主松平・岡部氏と縁がある正法寺
        (号は龍泉山、曹洞宗永平寺末寺で本尊は釈迦如来座像)
 
 
正法寺建立の由来

昔、大坂泉州には4人の長者が勢力を

ふるっており、その長者のひとり、熊

取大垣内のおおがち長者は大宮に正福

寺を建て、その妻は小垣内(川田の北

方の白地山)に、妻寺(め寺)と呼ば
れた正法寺を建てた。
 
中盛彬の「拾遺泉州志」によると。
「小垣内村、昔は『大垣内』と書いて
『おおがきの里』という。
ここに『おおがちの長者』という豪農
ありし、和泉国四長者(おおがちの
長者、とくまむ長者、かげやま長者、
ぐむまむ長者)の一人なり。
今長者屋敷とて田の字にいえり。
この村の東、小川を隔て正福寺とい
う寺あり。
今、小堂ひとつに地蔵菩薩の石像を
安置する。これ昔の遺物にして、
正の兵火を幸いに逃れた。
この寺はかの『おおがち長者』建立
の寺で、また、このこのすこし東、
白地谷に一精舎あり、これを正法寺
という。
時の人、この正法寺を「め寺」とい
い、正福寺を「お寺」と言う。」
記される。
 
ところが、1585年(天正13年)
の豊臣秀吉の紀州根来寺攻めの時、
熊取谷では、正法寺(小垣内)をは
じめ、東円寺(とうえんじ・野田)、
平福寺(大久保)、高倉寺(小谷)
・法願寺(朝代)が兵火で焼失する。
 
正法寺のある泉州(岸和田以南)地
域は、岸和田藩の領地で、藩主は小
出秀政、小出吉政、小出義英の小出
三代、そして松平康重、松平康映(
やすてる)の松平二代、その後、岡
部宣勝が藩主となり明治維新まで岡
部氏が代々この地域を治めていた。
 
江戸時代以降宗教の信仰、活動は、
幕府のもとで本山をもっていなか
った寺院は、本寺をすべてもつ
寺となり、民衆は、旅行・結婚等
は寺請が必要とされ、亡くなると
檀那寺に葬られるようになる。
幕藩体制のなかで、家の宗教が決
められ、家は寺、寺は本山、本山
は幕府に組みこまれ統制される。
 
 
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(向かって右から) 「當寺 光禅威和尚禅師塔 中興」 「□渓 當寺開山大和尚 二世
「當寺 快山秀大和尚 二世」 「當寺 太□□大和尚 四世」(左横刻印 延亨元)
 
正法寺焼失後、定光寺(伯州八橋郡倉吉
村)の弟子文蔵が小庵を再建していて、
松平康重(菩提寺が定光寺)が岸和田藩
主になった時に、文蔵が取立てを願い出
たために元和7(1621)年に岸和田
藩主松平周防守(康重)により現在の地
に再建され、松平康重を開基とする。
松平康重藩主の時に岸和田藩108ヵ村
を「八人庄屋の制」のもとで、八人を任
命して岸和田藩領の掌握を図る。
内熊取谷2家が庄屋。
郷士代官 熊取 中 左近    
同     熊取  中 左衛門尉 降井氏
34ヵ村支配
 
慶安3(1650)年に無住となった
時に住職の後任は城主である岡部美濃
守宣勝公によって行われ梅渓寺を中興
した燈外和尚を正法寺の住職とし、
外和尚を開山とする。
正法寺は平僧地から和尚地に昇格し、
岡部宣勝公は三度この寺を訪ねる。
 
岡部宣勝(1597-1668)の父は長盛、
母は松平康元の娘で徳川家康の妹に准
じる洞仙院です。

1640(寛永17)年、摂津高槻か

ら岸和田藩主として

6万石で入城し、そのとき、宣勝は母
の位牌等を転置し墓碑を梅渓寺(岸和
田市)に建立する。
 
熊取町には、現在13ヵ寺あり、内
洞宗梅渓寺の末寺が正法寺(小垣内)、
法願寺(朝代)、来迎寺(和田)、
西方寺(成合)と四ヵ寺がある。臨済
宗が法禅寺、慈照寺、恵林寺、興蔵寺、
興正寺の5ヵ寺と、13ヵ寺の9ヵ
寺が禅宗である。
 
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 岡部宣勝(1597-1668)
 
岡部宣勝が入城の際、前任の松平
氏時代にの石高が、領地はその
ままで、5万石から6万石へ増高
されたため、領民の負担が重くな
る。
その軽減を求めて領内108ヵ村
の百姓たちが強訴に及び、彼らは、
岸和田城の堺口御門に宣勝一行を
待ち受けて、1万石の年貢減免を
願する。
これは、松平時代の2割増もの年
貢を背負い、厳しい収奪に苦しむ
領民が起こした騒動だった。
 
 
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強訴して斬首の刑にされた庄屋川崎久左衛門の墓石
 
 
強訴して斬首の刑にされた人の墓碑
が円教(岸和田市寺町筋)にある。
墓碑の由緒によると、城主岡部宣勝
は群衆の主たる者を投獄し、農民
窮状を詳しく訴えた沼村庄屋川崎久
左衛門を、法は曲げられずとして、
津田川の刑場で斬首の刑に処する。
この碑は死後160余年を経て、同
刑場に有志によって建てられる。
その後1899(明治32)年に
円教寺(日蓮宗、五軒屋町)の境内
に移したとある。
これに対し、宣勝は総石高から30
00石を減免し、村々に減免分を
り当て一揆を未然に防ぐ。
 
岡部宣勝は領内全地域から新たに
七人を採用し、各地区ごとににお
かれた七人は「大庄屋」七人衆
称せられ、郡代の民政諮問に応じ
る職であった。
苗字帯刀を免許されて毎月数日鄕
会所(ごうかいしょ)に出勤した。
 
(郷士代官)   熊取     中 左近      中氏       
(同    )  熊取     中 左太夫    降井氏   
(代官庄屋)   岸和田  岸 久左衛門     岸氏      
(筆頭庄屋)   佐野   藤田十郎太夫   藤田氏
(同    )  佐野   吉田久左衛門   吉田氏
        樽井   脇田右馬太郎 
        畠中   要源太夫
 
この七人衆は近世を通じて変わる
ことはなく、泉州地域は、岡部宣
勝以来、明治維新に至るまで岡部
氏の統治をうけた。
 
お盆のとき先祖の墓がある正法寺
(大阪府泉南郡熊取町小垣内)に
ゆく。
雨の少ない熊取では河川のいたる
ところに井堰がみられる。
 
 
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 昔、小垣内では夏至ころに江州植え
といって縄を縦に 引いて、キンジョ
が助け合い田植えを行ったという。
これを「イ(結)」とよび一日人手
借りたら一日返すといもので、今
も受け継がれているそうだ。
  
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和泉国地図・1749(寛延2)年(「国立公文書館蔵」より)
 
    
岸和田藩と熊取・正法寺
 
1575(天正 3)年  慈照寺(五門)を中左近盛行が創立。
1583(天正11)年  羽柴秀吉、家臣中村一氏を岸和田城主とする。
1585(天正13)年  岸和田城合戦(3月)
               秀吉軍と根来衆和泉近木川付近にて合戦(3月20日)
               秀吉、中村一氏から小出秀政を城主とする。
               本願寺(貝塚)が天満に移る。
1586(天正14)年  岸和田藩領内検地          
1587(天正15)年  小出秀政1万石の大名になる。
1597(慶長 2)年  岸和田城天守閣竣工(文禄4年.1595年起工)
1600(慶長 5)年  根来盛重が関ヶ原の戦で戦う。 小出秀政が円教寺建立
江戸時代
1603(慶長 8)年  徳川家康、江戸幕府開く。
1605(慶長10)年  徳川秀忠、2代将軍就任。
1614(慶長19)年  根来盛重 大坂の冬の陣で戦う
1615(慶長20)年  根来盛重 日根郡29ヵ村の和泉代官(-1619)
               大坂夏の陣 豊臣氏滅亡
              中家庄屋屋敷(中家住宅)建てられる
1619(元和 5)年  小出吉英、但馬国出石に転封。
              松平康重、岸和田藩主となる。
              根来盛重、大鳥・和泉・南郡の地の代官(-1641)
1619(文禄2)年   正法寺、岸和田城主に願いでて建立。
1621(元和7)年   藩主松平周防守康重が白地谷から現在地に移し再建。
1640(寛永17)年  松平康重没。松平康英襲封、播磨国山崎へ転封。
               岡部宣勝岸和田藩主となる(6万石)。
              領内108ヵ村の農民が増高取消しを求めて強訴する。
              熊取谷中左近、降井左太夫が岸和田藩大庄屋7人衆。
1655(明暦 元)年 熊取谷の農民が離村へ逃散する
 
 
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8月13日