「本能寺の変」にて、明智光秀は「本能寺」の信長を襲撃し、
次いで、信長の嫡男信忠の居所妙覚寺を攻撃した。
の妙覚寺(京都市上京区上御霊前通)を訪ねました。
 
 
本能寺の変の前夜。天正10(1582)年6月1日、
信忠は、父信長とともに備中高松城への援軍に向かうために、妙覚寺に滞在していた。
6月2日未明、明智光秀は信長が居た「本能寺」を襲撃後、
妙覚寺の信忠を倒さなければ謀反は終決せず、
明智軍の主力は妙覚寺に移動した。
 
 
 
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          本能寺の変のとき、信長の嫡男信忠が居た「妙覚寺」
          
 
一方、織田信忠(1557-1582)は、6月2日未明に信長の自害の報せを受け、
隣の二条新御所に移り、親王(さねひと)を脱出させる。
信忠、約1千の兵を指揮し、明智の大軍を三度にわたって押し戻し、
善戦するも1万3千人の軍の前に力尽きる。
信忠の最期、「信長公記」に遺骸を隠すように遺言し、腹を切ったと記され、
父信長と同じく、その首が明智方に見つけられることはなかった。
 
 
本能寺、妙覚寺は「本能寺の変」後、現在の地に秀吉によって移される。
当時の妙覚寺は、本能寺から1kmも離れていない「下妙覚寺町」に在り、
信長が誠仁(さねひと)親王に献上した御前の二条御所(焼失)の西隣で、
本能寺と同じく今よりも広い境内であった。
 
 
 
 
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当時の本能寺の地は、「本能寺跡」(京都市中京区)の石碑があり、
堀川通にある堀川高校の蛸薬師通を東100mの場所で、
天正10年の本能寺の変当時は、南北約1km、東西約500mもある
広い境内の寺院であった。
 
 
 
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         「本能寺の変」があった「本能寺跡」の石(左手前)
         織田信長(1534-1582)と炎上した本能寺の地、現在「本能消防分団」前。
 
 
 
現在、妙覚寺(山号は具足山、日蓮宗本山、1378年創建、洛中法華21ヶ寺)は、
大徳寺の南東、38号線堀川紫明交差点近くに在り、
「本能寺の変」の翌天正11(583)年に秀吉の命で現在の地に移されて今日に至る。
今、祖師堂は保存修理工事中で、工期は平成24年11月~平成28年1月(豊工務店)。
 
 
 
信長、秀吉の天下統一と本能寺、妙覚寺
 
 
1534(天文 3)年  織田信長誕生、(尾張守護代の家老信秀の嫡男)
1543(天文12)年  種子島に鉄砲伝来。
1557(弘治 3)年  織田信忠誕生(織田信長の嫡男・後継者)
1570(元亀 元)年  織田信長と顕如・石山本願寺の石山合戦(1570-1580)
1573(天正 元)年  織田信長、足利義昭を京から追放。
1575(天正  3)年    5月、長篠の戦い(織田・徳川の連合軍対武田軍)
1577(天正 5)年  織田信長、雑賀城攻め(太田左近宮郷衆・根来衆が織田信長に味方)
1580(天正 8)年  石山本願寺と信長が和睦、 顕如、紀伊国鷺森に本願寺(1580-1583)
1581(天正 9)年  織田信長の高野山攻め、
1582(天正10)年  6月2日本能寺の変、織田信長、信忠没。
               6月、秀吉の高松城攻め(黒田官兵衛・長政)
               6月6日秀吉、高松城より全軍撤退、8日秀吉、姫路城到着。
               6月9日秀吉、光秀討伐のため姫路城出兵、11日尼崎で4万軍勢集結。
               6月13日羽柴秀吉と明智光秀両軍の山崎合戦
                    (山城国と摂津国の国境・淀川を隔てて天王山背負う山崎の地)
               6月27日清州会議(信長の家督相続・領土の分配)
583(天正11)年   3月北近江にて秀吉、柴田勝家と対峙
               4月24日佐久間盛政(勝家の甥)隊が大岩山砦を攻めかかり、
                     中川清秀を討ち取る。秀吉「大返し」(2度目)
               4月24日賤ヶ岳の戦い、(長政、功を挙げ河内国450石)
                     柴田勝家は北の庄城(現福井市)にてお市と自害。
               7月4日顕如、紀伊国鷺森から和泉国貝塚の願泉寺を本願寺
               9月秀吉、大坂築城に着手。
               妙覚寺、秀吉の命で現在地に移転。
1584(天正12)年    1月根来勢、岸和田城攻撃。
               3月、信雄、三家老を成敗し、秀吉と断交。
                小牧・長久手の戦い(織田信雄・家康対羽柴秀吉)
                家康・信雄、小牧山を占領布陣。
                秀吉、3万の大軍を率い、小牧山の家康軍包囲
               3月根来勢、再度岸和田・堺を襲う。
               黒田長政、大坂城の留守居を務め、雑賀衆、根来衆、長宗我部水軍と戦う
               (4月長政、恩賞2千石与えられる)
               8月秀吉、美濃駒野城攻めで、孫一鉄砲衆200人を率いる。
               11月11日秀吉、伊勢にて織田信雄と単独講和。
1585(天正13)年   3月、岸和田城合戦
               羽柴秀吉軍と根来衆が和泉近木川付近にて合戦(3月20日)
               根来盛重は積善寺城にろう城
               秀吉軍の根来攻めで根来寺炎上(3月23日)
               3月25日秀吉、太田城を水攻め
                     鈴木孫一、秀吉方降伏勧告使者の案内役
               4月10日秀吉、高野山に降伏勧告使者を送る。
               4月16日秀吉、木食応基と対面(高野山降伏)
               4月24日秀吉、太田兵に朱印状
               羽柴秀吉、中村一氏を近江水口へ移し、小出秀政を城主とする。
                本願寺(貝塚)が天満に移る
1591(天正19)年  本願寺、秀吉から京都の現在地(七条堀川)に寺地を与えられ、 
               本願寺教団をは再興する。
1592(天正20)年  本能寺、秀吉の命で現在地に建立。
1994(平成 6)年  本願寺(西本願寺)、国の史跡に指定され、
               「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。
 
 
 
 7月13日