阪上水神の創始者阪上亀吉の銅像が
大阪の熊取(大阪府泉南郡熊取町桜
が丘)に祀られている。
 
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阪上水神の創始者阪上亀吉の銅像がある桜が丘(紺屋山)
 
暮らしのなかで、安産や病気が治
るために祈願するが、阪上水神は
大正時代に、病気治療の水神とし
て、府下に知られた頃があった。
 
 
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紀念像 阪上亀吉翁(昭和7年建之信者一同)
 
阪上亀吉(-1932)は、もともと
弱く、自宅の井戸の水をつけ
癒し、井戸に水神を祀っていた。
その後亀吉氏に、井戸の水を患部に
触ってもらうと体が良くなり、そう
いうひとが多くなってゆくようにな
る。
 
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紺屋の阪上家の水神の井戸
 
 
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これを訊いて、南は和歌山、北は大
阪市内より阪上亀吉翁を信心して、
多くのひとが訪ねてくるようになる。
紺屋山に奉納された石碑からも、こ
を知ることができる。
 
大阪の浪曲家日吉川秋水
大正の頃。大阪の浪曲家日吉川秋水
は、阪上水神に救いを求め、霊場に
「極楽橋」を奉納し、大正14(19
25)年3月に橋が架かけており、同
7月に他界する。
紀念像の下手前に「極楽橋」があり、
橋の石柱には「日吉川秋水 木村清
」、「大阪南堀江 大正14年3月」
の刻印がある。
 
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  熊取の四国八十八カ所霊場     日吉川秋水奉納の極楽橋
 
日吉川秋水(ひよしがわしゅうすい)
本名は木村清(1886-1925)。
大正時代の浪曲家で、京山恭末に弟
子入りし、23歳で独立し日吉川家を
創立し、初代桂春團治とも親交があ
り、「水戸黄門漫遊記」が18番で、
当たり演目のひとつで、大正14(
1925)年7月5日39歳の若さで肺
結核のために永眠する。
 
(四国八十八ヵ所「石仏」)
紺屋にある自宅(現紺屋北交差点
南下るスグ)から口無池、紺屋山
(現桜が丘)へ続く土手に大師祠
と八十八ヵ所の石仏を置いて祀ら
ていた。
信者はまず、阪上家を訪れて、加
持祈祷してもらってから井戸の水
をもらい、れを持って八十八ヶ
所を回り、宿泊所で水を飲んでい
た。
 
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             井戸の水をもらって、紺屋山の八十八ヶ所巡り
 
一時は大変盛んになり、信者が
上家から八十八ヶ所まで連なる
列ができるほどだった。
 
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 阪上亀吉宅の近くにあった石碑(「水神是」 「□十八ヶ所東五丁」 )   
 
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八十八ヶ所に通じる坂のわき道
 
また、4月21日の大師講の会式に
は、信者によるオセンギョウがあ
り、信者で賑わい、紺屋の子ども
はおにぎりやパンをもらいに行っ
たそうだ。
阪上亀吉翁は紀念像除幕式の1ヶ
月後昭和7(1932)年に亡くなり、
その後、八十八ヶ所は紺屋山の宅
地造成(昭和39年)により1ヶ所
(現桜が丘2丁目)に集められる。
 
阪上水神の祠内には「四国八十八
ヵ所及び紀念像等の由来」が掲げ
られており、由来書を抜粋要約し
て記す。
 
『紺屋村の山里に坂上亀吉先生と
申す修行者あり、晩年紀念像の化
身となりました。
紺屋村の坂上水上様と誰が敬称し
初めたことか、修行者にして、
世奇瑞の徳を慕て、病苦の救いを
求めて、遠近より参拝し、その患
者の数、枚挙にあらず。救いを求
めました。
凡そ大正の初期、篤志家の有志に
より、上下の御中、石佛を安置し
続いて、宿泊所建立、宿泊者の御
利益と便利を頂き、折柄奇なる哉、
昭和6年大阪の石工職高見善太郎
氏発言したものの、先生否認する
難関を許諾されました。
除幕式後1ヶ月にして阪上先生は
お他界に、立派な大往生なされま
した。
この悔しき如何(いかん)ばかり
なり。
総工費八百拾壱圓也。壱千圓弱な
り。又回顧する。
紀念祀る場所に困り果てた。土地
の狭いことに奔走(ほんそう)し
たが隣の竹藪、紺屋村阪上田傳右
門様に懇願譲渡されました。
この土地の高い場所、東端に紀念
像を安置す。その荘厳さも、惜し
くも宅地造成の編入によって、
在の一角に移転されて、只々(た
だただ)無念極まりなし。
要約由来と致しました。が私は恐
縮乍に謙遜致しました。昭和四十
八年正月記して昭和59年○月十
日書きなおしました。
貝塚市小瀬1丁目7-6 小門兵
○郎記す七十八歳』
 
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明治20(1887)年頃の熊取と紺屋山
 
天候もよく、畑で畝づくりをし、阪上
水神の枯れ葉を採りにいくと、八十八
ヶ所に花を供えている阪上亀吉氏の
の阪上さんに会い、亀吉さんの家の井
戸を見せてもらうことになった。
 
 
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国道170号線沿いの紺屋北交差点北に入る。    
 
 
3月22日