桓武天皇は、和歌浦(現和歌山市)に行幸
したあと、高津宮(現大阪市)への帰路の
途中和泉国の熊取野(現大阪府泉南郡熊取
町)で狩猟する。
 
 
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桓武天皇の行幸は都から和泉国を
経て804(延暦23)年10月
11日に紀伊国玉津嶋に到着。
帰路は難波宮をめざし途中10月
14日に熊取野で狩猟する。
 
 
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熊取歴史絵巻物「桓武天皇熊取野狩猟」
 
熊取の地名がみえる文献は『日本後
紀』にあり、桓武天皇行幸の狩猟の
記事に初めて載ることになる。
桓武天皇は、804(延暦23)年
10月3日、都・平安京から難波に
行き、難波の行宮で泊まる。
 
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史博物館から見る難波宮跡(大阪市中央区、写真奥・緑色)
 
 
以下『日本後紀』による。
10月5日、和泉国大鳥郡の原野・恵美原で狩猟する
10月6日、城野で狩猟をし、日が暮れて日根に着く。
      日根の行宮に仮宮を造り、しばらく滞在し猟する
10月7日、垣田野(かきたの・現泉佐野市鶴原)で狩猟
10月8日、藺生野(いぶの・現岸和田市加守町)で狩猟
10月9日、日根野(ひねの・現泉佐野市日根野)で狩猟、
       この間(6日から9日)関係者の献物や賜物
10月10日、詔勅を出して関係者に叙位を行う。
       『詔して曰く、今行宮を御覧ずるに、山野
       も麗しく、海れんも清くして』と日根の地
       の景色を称賛する。
10月11日、孝子峠を越え紀伊国玉津嶋に行幸。
 
 
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鏡山から見る南の和歌浦干潟
 
 
当時の玉津島は、紀ノ川が和歌川の
流路を通り、和歌浦湾に注ぎ、現在
の和歌浦の大半が、海面下にあり、
雲蓋山、奠供山、鏡山などの小山が
満潮時には海中に浮かぶ島となり、
潮の干満により見え隠れし、遠く広
がる干潟の風景が都に住む人の心を
惹きつけたという。
若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 
 葦辺をさして 鶴鳴き渡る  
山部赤人)
 
和歌浦に船を浮かべて、その景観を
観て讃える。
 
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       久野丹波守和歌浦荘図巻(1800年代後期)の玉津嶋付近 
      (奥)名草山 (手前左から)妹背山 鏡山 奠供山
     
 
古代における畿外行幸は稀で、一代
一度の盛儀で、和歌浦行幸に従属す
る人の数も多く、詠んだ和歌が万葉
集におさめられ、玉津嶋は5首の和
歌に歌枕として詠まれている。
帰路。
10月13日、
『雄山道より日根の行宮に還る』、
日根行宮に着く。
10月14日、
熊取野(現熊取町)で狩猟をする。
 
 
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雨山が見える熊取の新池(鳥八尾)付近の熊取
 
 
10月15日、灘波行宮に到着。
この行幸は『為幸和泉国日根野』
(日本紀略)、『天皇以来冬可和
泉国』(「日本後紀」)とあり、
目的地は和泉国、なかでも日根野
を中心とする和泉南部だった。
 
都ができて以後、和泉国は、奈良
時代から平安時代にかけて、しば
しば飢饉があり、田租を減免し、
生産も上らず、安定した収穫を得
ることができず、可耕地を増やし
ていく必要があった。
天皇は、行幸・狩猟に際して地域
の人々が従うことを確かめ、あわ
せてその土地の群臣(ぐんじん)
・豪族に開発可能な土地をめぐっ
て議した。
ところで、熊取野周辺を含む和泉
国南部では、地の開発は10世
紀頃までその進捗が見られない
まつづく。
 
 
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2月15日
  絵巻物「桓武天皇の熊取野狩猟」ー歴史絵巻物(11)-