大河ドラマ「軍師官兵衛」(第10回
『毛利襲来』)。
ときは天正4(1576)年5月。
織田信長と顕如・石山本願寺の
山合戦(1570-1580)の真最中。
 
 
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雑賀孫一と雑賀孫六(歌川豊宣画 石山本願寺合戦)
 
姫路城南の英賀浜には5千の毛
利軍が上陸。
本陣には、播磨における一向宗
の拠点・英賀御堂に近隣の門徒
衆はここに集結していた。
 
一方官兵衛の小寺側の軍勢は千
にも足りず、夜明けに、領民総
出で旗指物を掲げて多勢の援軍
と見せかける。
官兵衛の策が功を奏して、毛利
軍攻撃の一刻をしのいだ。
しかし、毛利軍の大軍は、信長
と対抗するために、再び官兵衛
の小寺はじめ近隣諸国を制圧し
かねない状況だった。
 
この天正4年に信長は、安土に
城を築きはじめ、完成を待たず
に安土城に居を移していた。
 
天正4(1576)年5月、石山
合戦(1570-1580)の最中、
信長と本願寺は、紀州での戦い
の準備をし、ともに雑賀に対す
る調略を進めていた。
 
雑賀衆(さいかしゅう)は紀伊
国北西部(現和歌山市と海南市
の一部)の「雑賀荘」(土橋氏)
、「十ヵ鄕」(鈴木氏)、「中
郷」、「南郷」、「宮郷(社家
郷)」(太田氏)の五つの地域
(五組)が地縁により結び付い
た一揆集団であった。
 
 
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雑賀五組構成図
 
天正4年5月16日信長は三組(
中郷、南郷、宮郷)の衆が、信長
の雑賀攻めに協力を申し出たこと
に対して、戦さに相当人数を出せ
ば、戦功により望み通りの恩賞を
だす旨の朱印状を出す。
 
一方、本願寺・顕如は、三組(「
三緘・みからみ」とも呼ぶ)の門
徒中にあて、信長が根来衆と一緒
に雑賀へ乱入のとき、万事投げ打
って「一味同心」するようにと雑
賀へ要請する。
 
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大坂城六番櫓の北側にある石山本願寺推定地                 
 
天文2(1533)年石山本願寺は、
山科本願寺焼失後、教団の本拠とな
り、周囲には土居と堀をめぐらして
いた。
本願寺の寺内町は、六町二千軒に
およぶ町屋が建ち並び、職人や商
人など1万人を越える人々が暮ら
し、当時の堺とならぶ都市生活が
くり広げられていた。
 
天正4年7月、織田水軍は、摂津
の木津川の河口で、石山本願寺に
兵糧を運び込もうとする毛利の水
軍と激突する。
織田水軍は壊滅、大敗を喫し、
の織田敗北が官兵衛に新たな危機
をもたらし、「軍師官兵衛」は『
第11回命がけの宴』で新たな展
開をみせる。
次いで第12回は、天正5年8月
『人質松寿丸』のときにとぶので、
この間の信長が天下統一を目指し
た石山合戦(1570-1580)を記
す。
 
翌天正5(1577)年2月13日
織田信長は、織田信忠・神部(織
田)信孝・織田信雄など15万
余騎を率いて雑賀攻めのため京都
を発つ。
2月17日には、泉州貝塚に陣取
り、根来寺杉ノ坊が出陣のお礼と
信長の下へ雑賀の様子を説明する。
根来寺は高野山金剛峯寺へ信長方
に味方することが得策と告げる。
2月22日信長軍は信達に進み、
ここから兵を浜側の孝子峠と山手
の雄ノ山峠を越える道に二分して
侵攻した。
 
 
 
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山手の軍は、根来寺杉の坊、雑賀三緘
(みからみ)の者が案内にたち、佐久
間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・別所重
宗・堀秀政ら三万余騎で紀ノ川を渡り、
雑賀三緘の地を小雑賀川(現和歌川)
に沿って南下し、雑賀衆の本拠弥勒寺
山を攻撃する。
これに対して雑賀衆は小雑賀川の岸
に柵を設け、鉄砲衆を並べて対峙し、
堀秀政ら軍勢に打撃をあたえる。
 
 
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一方浜手の信達・淡輪から孝子峠越え
の織田軍勢は、2月28日紀州中野城
(現和歌山市中野)を降伏させ、織田
信忠が城中に入って、雑賀の攻撃の基
地にする。
3月1日、雑賀衆の本拠弥勒寺山(
木孫一講)は、総攻撃をかけられ、
2日、鳥取(現大阪府泉南市)に移し
た信長本陣に雑賀衆は、鈴木孫一・土
橋平次・粟村二郎大夫はじめ7名が連
署して降伏する。
信長は3月21日に陣を払い、22日
根来杉ノ坊に要塞を構えた佐野に紀州
守らせ、27日安土に帰った。
 
 
 
信長・秀吉の天下統一(黒田官兵衛と根来衆・雑賀衆)
 
鎌倉時代
1288(正応元)年  高野山から大伝法院を根来寺に移す
1489(延徳元)年  延徳年間(1489-1492)に太田城を築城
戦国時代
1543(天文12)年  愛染院津田監物算長、種子島に渡り、鉄砲を根来に持ち帰る
1547(天文16)年  根来寺の大塔が完成
1560(永禄 3)年  2月雑賀孫一、畠山高政方につき三好実休の軍勢と戦う
1567(永禄10)年  黒田官兵衛、姫路城主となる。
1568(永禄11)年  黒田長政(幼名松寿丸)生
安土・桃山時代
1570(元亀元)年  織田信長と顕如・石山本願寺の石山合戦(1570-1580)
1573(天正 元)年  織田信長、足利義昭を京から追放。
1575(天正  3)年    5月、長篠の戦い(織田・徳川の連合軍対武田軍)
 
 
1576(天正 4)年  5月、毛利軍姫路城の南、英賀浜に進軍・退去(黒田官兵衛策)
1577(天正 5)年  織田信長、雑賀城攻め、太田左近宮郷衆・根来衆が織田信長に味方
               (雑賀孫一、雑賀衆として信長と戦う)
1580(天正 8)年  石山本願寺と信長が和睦。(雑賀孫一、雑賀衆の年寄衆として誓紙に連書)
               顕如、紀伊国鷺森に本願寺(1580-1583)
1581(天正 9)年  織田信長の高野山攻め、
1582(天正10)年   正月雑賀孫一、在郷の土橋若大夫を殺害  
               5月雑賀孫一、岸和田城主織田信張のもとに参上
               6月2日本能寺の変
                                鈴木孫一、土橋氏に雑賀の支配権を奪われる。
583(天正11)年   羽柴秀吉、家臣中村一氏を岸和田城主とする。
               顕如、鷺森から和泉国貝塚の願泉寺を本願寺
1584(天正12)年   小牧・長久手の戦い(織田信雄・家康対羽柴秀吉)
               8月秀吉美濃駒野城攻めで、孫一鉄砲衆200人を率いる。
1585(天正13)年   岸和田城合戦(3月)
               羽柴秀吉軍と根来衆が和泉近木川付近にて合戦(3月20日)
               根来盛重は積善寺城にろう城
               秀吉軍の根来攻めで根来寺炎上(3月23日)
              3月25日秀吉、太田城を水攻め
                    鈴木孫一、秀吉方降伏勧告使者の案内役
              4月24日秀吉、太田兵に朱印状
               本願寺(貝塚)が天満に移る
              根来盛重、三河国浜松において徳川家康と対面(8月23日)
              成瀬正成を組頭とした根来組が編成される
1586(天正14)年  岸和田藩領内検地 
1587(天正15)年  豊臣秀吉、根来寺山門を大和郡山城に移す
1600(慶長 5)年   9月、関ヶ原の戦い、家康軍勝利。
              根来盛重が関ヶ原の戦で戦う。
             徳川家康、根来寺の再建を許可 
 黒田長政、筑前名島に52万3000石を
与えられ福岡初代藩主になる。
江戸時代
1603(慶長 8)年  徳川家康、江戸幕府開く。
1604(慶長 9)年  黒田官兵衛卒(59歳)
1615(慶長20)年  根来盛重 日根郡29ヵ村の和泉代官(-1619)
              大坂夏の陣 豊臣氏滅亡
1616(元和 2)年  徳川家康卒
 
 
2月12日