長堀通(昔から現在)
大阪市の長堀通を訪ねます。
長堀通(伯楽橋西詰交差点から今里
交差点まで)は、約6kmで、大阪
市内の中心部を東西に横断している。
 
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長堀通(東西の道路)は、戦後に
長堀川を埋め立ててつくった道路
で、北岸を通っていた末吉橋通の
幅を広げたようになっている。
 
交通量が多く、両側6車線以上の
車幅と約15mの中央分離帯があ
り、心斎橋筋をはじめ繁華街の筋
(南北の道路)と交差している。
 
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長堀川に架かる「長堀橋」があった交差点の東側の長堀通
 
豊臣秀吉の頃に遡る。
秀吉は御堂筋の西側に西横堀川、
東側に東横堀川、南側に長堀川を
つくり、西堀川と東堀川の間に
船場」と呼ぶ商いの町をつくる。
 
長堀通の交差点「西大橋」より
「なにわ筋」の北沿いに「ここに
砂場あり」の史蹟が新町南公園に
ある。
石碑に刻印された文をもとに紹介
する。
1583(天正11)年、秀吉は
大坂城築城に際して諸国より集め
た築城の資材を大坂城近辺の資
置き場に運び込まさせる。
砂・砂利類は新町(現在大阪市西
区)に運びこまれたために新町は
「新町砂場」と呼ばれていた。 
新町砂場には、人夫や武士を対象
にした食を商う店が出、「津の国
屋」、「いづみ屋」などのそば
があって、屋号を使わず、蕎麦屋
のことを「砂場」と呼び替えてい
た。
 
 
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 大阪築城史蹟・新町砂場
 
 
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 「新町南公園」と「なにわ筋」の北側 
 
 
江戸時代の「摂津名所図会」では、
「新町西口南の町の地名なり。
ここに麺類を商う店があり、難波
の名物で、遠くよりここに集まっ
てくること、日々数百に及ぶとい
う。
『ひさし』に『うたろう』を葺
(ふ)いて火災を除くように用い
る。
初めは和泉国熊取郷五門村の産、
その類族かの地にありとなん。
中氏(なかうじ)といふ。
と記されている。
 
この新町に大阪南部の熊取谷(現
在大阪府泉南郡熊取町)の中家(
岸和田藩七人庄屋筆頭)一族が
いづみや」の店を出し、蕎麦屋を
営んでいた。
 
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「摂津名所図会」(のれんに「すな場」) 
 
江戸時時代に大阪で大評判だった
砂場蕎麦を熊取の手打ちそばクラ
ブが復活させている。
新蕎麦粉8に対してつなぎの小麦
粉が2の割合の二・八蕎麦(砂場
蕎麦)で、蕎麦の芯は硬く、だし
をかき混ぜて食べ、蕎麦とだしを
少し残しておき、蕎麦湯まぜて食
べると、この二・八蕎麦(砂場蕎
麦)のおいしさを二度味わうこと
ができる。
 
東横堀川の末吉橋下流でわかれて
木津川の伯楽橋下流に流れ、西横
堀川と交わる地点には四つの橋が
架けられていた。 
四ツ橋より約100m北に、西横
堀川(現阪神高速1号環状線)沿
いにいくと、西横堀川に「新町廓
(くるわ)」に通じる新町橋があ
つた。
新町廓(くるわ)は寛永6(162
9)年に、伏見町より移転し、
郭の四方水路(兼下水)をめぐら
し、竹垣(後に板塀)を立てて周
囲の町家とは隔絶させていた。
 
 
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 「新町橋」(画は二代長谷川貞信)の史跡。    
 
 
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西横堀川沿いの遊郭と材木置き場。
 
明治以降に新町遊郭は九条に移され
た。
九条は、江戸時代の初め頃、淀川河
中州で、尻無川と木津川に挟ま
れた地(寺島)で農地として開発さ
れ、「くじょう島」と言われていた。
後に「九条」と改められるが、新町
遊郭が移ってきた九条は松島遊郭と
その歓楽街で賑わい、条の北の端
は大坂船手の屋敷地となる。
 
長堀川は、1622年に開削された、長
さ約2km、幅約50mの運川。
東に架けられていた橋を炭屋橋、西を吉
野屋橋、南を下繋橋(しもつなぎばし)
北を上繋橋(かみつなぎばし)と言い、
合わせて、これを四ツ橋と呼んでいた。
 
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浪花百景「四つばし」(初代長谷川貞信)
 
この辺りは大阪の中心部で、十字の
川面を行きかう船や納涼や観月にも
適していたので、旧くよりその名を
知られていた。
四ツ橋から東側を東長堀川、西側
西堀川と呼んでいる。
上流の長堀川(東長堀川)沿岸に
は廻船問屋が、下流(西長堀川)に
は、材木問屋や各藩の屋敷が並び賑
わっていた。
 
戦後は大阪市内の自動車の増加等に
より、長堀川を道路として活用する
ために埋め立てる。
四ツ橋以東は昭和35年~37年、
以西は昭和42~46年に埋め立て
を行い、橋や建物がないが、橋の名
前が交差点に使われたりしている。
 
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長堀川に架かる橋(手前から御堂筋
新橋、心斎橋、三休橋)。
昭和37年に埋め立てられる。
 
 
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 南北に流れる西横堀川と四ツ橋(昭和38年)
 
 
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長堀通にある四ツ橋跡
 
新町橋も昭和46(1971)年に西横堀川
埋め立てにより撤去され、 新町には当
時の面影はない。
現在、長堀通は道路、地下街や地下駐車
場が整備されて利用者で賑わっている。
 
 
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2月1日
  大阪の街(西区・九条)と安治川ー新大阪物語(72)ー