大阪の熊取町(泉南郡)の降井家。
江戸時代初期頃に建立された降井
家の書院は重要文化財(11月2
日・3日公開)に指定されている。
 
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  降井家(大阪府泉南郡熊取町大久保)
 
  
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 「熊取ふるさとカルタ」の降井家書院
 
降井家は中家と共に中世以来の土豪
南朝方にあって活動し、江戸期に
はいって中左大夫家を名乗り、明治
以降は降井家に姓を降井家にかえる。
 
江戸時代の中家は、岸和田藩の郷士
官や七人庄屋の筆頭を勤め、 熊取
(くまとりだに)の年貢徴収や年
寄・組頭の決定を委ねられ、藩経済
にも貢献する。
 
降井家の当主中盛彬(1781-1858)。
 
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「平天儀」で天文学を研究する中盛彬。
 天体観測の盛彬の著書「太陽明界六曜
運旋正儀 (ろくよううんじょうしょうぎ)」
 
中盛彬(なかもりしげ)は熊取谷(く
まとりだに)の庄屋の役を30年勤め
ながら、 多芸多才で和歌・俳諧・絵
画・音曲に通じ、 国学や洋学、さら
に天文学を岩崎善兵衛に学ぶ。
盛彬は橋本宗吉、伊能忠敬、頼山陽
など、多方面に交友がある。
 
中盛彬の著書には、泉州の地誌・人物
を思いつくままに書きとめた「伽李
素免獨語」(かりそめのひとりごと)、
自分の家の歴史を中心とする『家記・
先代考拠略』がある。
 
中盛彬は「熊取」の地名の起こりを
書き、 「伽李素免獨語」(かりそめ
のひとりごと)では、いくつかを挙
げて紹介している。その内のひとつ、
「熊取谷は、三面は山うちかこみ、
西へは遠く海にのぞみたり、その
のあしひきつづきあるは、たえて又
さし出で、くまとれるかたち、一世
界をなせし堺なれば、隈どり谷とい
ふなり」と書き、『家記・先代考拠
略』のなかでは、「クマトリとは、
絵を書くにくまをとるといふことあ
り、この地小景のごとく三方より小
さし出て里をかくせるさま絵の隈
を取りしに似たるゆへの名なるべし
と記している。
 
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和泉国地図・1749(寛延2)年
絵図右上(東)に熊取荘(「国立公
文書館蔵」より) 
  
「熊取」は周囲が山地、丘陵で隈ど
(クマドリ)された谷、盆地にな
地形から名付けられたという。
 熊取の地名は、古代には「熊取野」、
中世には「熊取荘」、近世には、
熊取谷」などと呼ばれ、現在まで
「熊取」の地名と地域を変えるこな
く今日まで続いています。
 
 
熊取は、三方が山に囲まれた古都奈
良の地形に似ている。
降井家書院の前に神社があり、この
社は春日神社で、春日神社は春日
大社(奈良市)の末社で、藤原氏の
祖神が祀られ、中家は、藤原氏とゆ
かりがあるようだ。
 
「伽李素免獨語」」で、紀州藩と岸
和田藩の境界、葛城山の山頂の「葛
城神社」を紹介しています。
岸和田藩主長富公が葛城山で猪狩り
したとき。
 白鹿に矢をたくさん射るが、ひとつ
も当たらず。
まもなくぼんを傾けたような激しい
雨が降り、雷が鳴り響く。家老の中
嶺盛が長富公を避難させ、身代わり
として山頂にとどまり、しばらく
ると、空が晴れて、嵐はおさまる。
中嶺盛は竜王に宝殿と霊垣を石でつ
くって奉納し、霊垣に、「中与左衛
門尉建之」と記す。と、紹介する。
 
この話で、家老の中嶺盛は鹿が神様
(神者)だろうと言っている。
 
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霊垣に「中与左衛門尉建之」が刻印された葛城神社
 
奈良公園ではたくさんの鹿を見かけ
るが、奈良・平安時代に大きな力を
もっていた藤原氏の氏神(天児屋根命)
を祀る春日大社が近くにあり、春日様
の神の使いとしての鹿は、大事にされ
てきたようだ。
 
中盛彬は、郷士(ごうし)の流れを
ひく家格を誇りとし、藩にはたびた
び藩財政再建策を提言し、中左大夫
家の隆盛を想い、子孫に家運の道を
誤らぬよう著書にて記す。
中盛彬は時代の行く末を想い、明治
維新を見ることなく亡くなる。享年78歳。
  
 
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熊取・中家の歴史(メモ)
奈良時代
757年(天平勝宝9) 和泉国(大鳥・和泉・日根の三郡)の日根郡に属する。
平安時代 
1157(保元2)年   後白河帝熊野行幸(31歳)
               後白河帝が熊野詣、中家に立寄る(伝承)
鎌倉時代              
1297(永仁5)年   慈照寺、法燈国師により開基
1316(正和5)年   「日根野村荒野絵図」の中に「熊取」の地名
1334(建武元)年   日根郡熊取庄地頭職に湯浅木本宗元
室町時代
1346(貞和2)年   橋本正督が雨山城を築く
1504(文亀4)年   紀州の根来衆熊取谷を襲う。
1555(弘治元)年   根来盛重生まれる
安土・桃山時代                
1575(天正3)年   慈照寺(五門)を中左近盛行が創立
1585(天正13)年  秀吉軍の根来攻め(8月)
               根来盛重は積善寺城にろう城
1600(慶長 5)年  根来盛重が関ヶ原の戦で戦う
江戸時代
1614(慶長19)年   根来盛重 大阪の陣で戦う
1615(慶長20)年   中家住宅建てられる
1641(寛永18)年   根来盛重卒
1726(享保11)年   「後白河法皇行宮の中家由緒書」作成
               (左近盛直が公家の石山師香(もろか)に作成依頼)               
1756(宝暦 6)年   岩橋善兵衛生まれる
1771(明和 8)年   永楽池の築造工事が始まる
1781(天文 元)年  中盛彬生まれる
1793(寛政 5)年   岩橋善兵衛が窺天鏡の望遠鏡を製作
1805(天文 5)年   中盛彬が岩橋善兵衛に入門する。
1807(文化 4)年   中瑞雲斎生まれる
1811(文化 8)年   岩橋善兵衛卒
1853(嘉永 6)年   吉田松陰が中家訪問(3月)
               ペリー上陸(6月)
1858(安政 5)年   中盛彬卒
1862(文久 2)年   松平春岳政事総裁職に就任
                横井小楠の「国是七条」を幕府に建言
1863(文久 3)年   中瑞雲斎(57歳)・長男莞爾が讃岐へ。           
1866(慶応 2)年   熊取の村むら困窮のため藩に歎願書出す。
                岸和田藩朝廷方につく。
1867(慶応 3)年   大政奉還(10月)、王政復興(11月)
       
 
熊取町(メモ)
人口  約45000人
世帯  約17000世帯
位置  大阪府南部
     関西空港の東隣
     西の大阪湾海岸より約2km内陸にあり。
     幅3.5㎞、北西から北東約7㎞、面積17㎢
     三方を丘陵部と山地部に囲まれる。
交通  JR阪和線熊取駅
     国道170号線(大阪外環状線)
 
 
 
11月2日