大阪の御堂筋。
大阪市内の中央を走る御堂筋は、
商都大阪を代表する道路。
「御堂筋」の名は北御堂と南御堂
のふたつの御堂にちなんでつけら
れる。
北御堂は御堂筋と交差する中央大
通りの北側にある。
現在北御堂は、改修中だが、外観
は見ることができる。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/72/24/j/o0448033614450166034.jpg?caw=800)
改修中の北御堂(中央)と親鸞聖人像(本年750回大法要)
浄土真宗本願寺派(西本願寺)本願寺
津村別院(北御堂)。
慶長2(1597)年に大坂門徒が現在
の地に「北御堂」(津村御坊)を建立
し、その門前に多くの商人が集まり、
大坂の商業の中心「船場」を築く。
北御堂より北に進み、御堂筋を挟んで
東の平野町通りの次の通りが道修町(
どしょうまち)の通り。
御堂筋を右(東)におれ、道修町の通
りを東の東横堀川の方へと歩く。
道修町(大阪市中央区)は御堂筋の方か
ら3丁目、2丁目、1丁目となり、御
堂筋と東横堀川との間にあって、道修
町(どしょうまち)は、いわゆる「船
場」と呼ばれる地にある。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/f6/b5/p/o0518047014450166041.png?caw=800)
道修町には製薬関係の本社・会社が
多く建ち並んでいる。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/65/bc/j/o0448033614450166067.jpg?caw=800)
大阪薬科大学発祥の地(現在塩野義製薬株式会社)
明治37(1904)年大阪道修薬学校が
平山松治(初代校主)、薬種商塩野吉兵
衛らの尽力で設立される。
また、道修町には建物から明治の頃の
面影を残す店を見ることができまる。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/d6/78/j/o0448033614450166079.jpg?caw=800)
安政3(1856)年薬種業創業の旧小西家住宅
初代小西儀助が安政3(1856)年に
薬種業を創業した旧小西家住宅 の現在
の建物は明治36(1903)年に建てら
れた商家(現・コニシ株式会社)である。
この町には、通称「神農(しんのう)さ
ん」と呼ばれる神社があり、その隣には
この町の「資料館」がある。
神社にお参りしたあと見学する。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/22/b6/j/o0336044814450166088.jpg?caw=800)
資料館では、この町の商いが時代の
変遷により、それも江戸、明治、大
正、昭和から現在に至るまでの薬の
流通のしくみが変わってゆく図の掲
示が印象に残った。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/69/4c/j/o0448033614450166096.jpg?caw=800)
神農(しんのう)さん、少彦名神社
(すくなひこじんじゃ)。
明暦4(1658)年頃から薬種商が集
まり、安永9(1780)年に仲間会所
(現在地)に少彦名神社ができる。
この町は新しい薬を開発し、薬の販売
によってなりたっている町で、商店街
というよりも製薬会社のビル街であっ
た。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/96/e0/j/o0448033614450166109.jpg?caw=800)
少彦名神社前の薬関係の会社
余談になるが、商店街通りといえば
、船場では「南久宝寺町通り」(
御堂筋の東、難波神社の北側の東西
の通り)で、おもに傘や小物、カバ
ンなどのある卸問屋でコーヒ・飲食
店もある。この通りには
人や車が頻繁に通るが、道修町のビ
ル街はこの商店街とちがった趣きが
ある。
船場の東側は東横堀川で、道修町の
東端突き当りより北に折れて30m
くらいの所に高麗橋がある。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/d7/71/j/o0448033614450166127.jpg?caw=800)
高麗橋の西詰から見る東(大阪城)側
大坂城より西に1㎞近くに高麗橋があり、
東横堀川の北の端は土佐堀川、南の端は
高麗橋の西界隈が船場になる。
船場には「平五」、「天五」、「鴻池」
の豪商の店がならんでいた。
道頓堀川に通じ、江戸時代に商いの町大
坂と呼ばれた頃から船場の道修町(どう
しょうまち)は「道修町クスリヤ多シ」
と地図にも記され、今も薬の町として発
展し続けている。
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/c0/7a/j/o0448025514450166146.jpg?caw=800)
慶応3(1867)年、伏見屋市兵衛店図(現・小野薬品)
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190608/11/kazu3wa1192/c8/cd/j/o0768102414450166053.jpg?caw=800)
天保3(1832)年「浪華名所独案内」
今朝の大阪は、台風による大雨だったが、
幸い大阪市内も大きな被害がなかったよう
で、午後から大阪は晴れて、空が澄んでい
た。
9月14日
商都大阪・船場ー御堂筋と旧西横堀川沿いー新大阪物語(49)