大阪の御堂筋。
大阪市内の中央を走る御堂筋は、
商都大阪を代表する道路。
「御堂筋」の名は北御堂と南御堂
のふたつの御堂にちなんでつけら
れる。
北御堂は御堂筋と交差する中央大
通りの北側にある。
現在北御堂は、改修中だが、外観
は見ることができる。
 
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改修中の北御堂(中央)と親鸞聖人像(本年750回大法要)
 
浄土真宗本願寺派(西本願寺)本願寺
津村別院(北御堂)。
慶長2(1597)年に大坂門徒が現在
の地に「北御堂」(津村御坊)を建立
し、その門前に多くの商人が集まり、
大坂の商業の中心「船場」を築く。
 
北御堂より北に進み、御堂筋を挟んで
東の平野町通りの次の通りが道修町(
どしょうまち)の通り。
御堂筋を右(東)におれ、道修町の通
りを東の東横堀川の方へと歩く。
道修町(大阪市中央区)は御堂筋の方か
ら3丁目、2丁目、1丁目となり、
堂筋と東横堀川との間にあって、道修
町(どしょうまち)は、いわゆる「船
場」と呼ばれる地にある。
 
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道修町には製薬関係の本社・会社が
多く建ち並んでいる。
 
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         大阪薬科大学発祥の地(現在塩野義製薬株式会社)
 
明治37(1904)年大阪道修薬学校が
平山松治(初代校主)、薬種商塩野吉兵
衛らの尽力で設立される。
 
また、道修町には建物から明治の頃の
面影を残す店を見ることができまる。
 
 
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       安政3(1856)年薬種業創業の旧小西家住宅 
 
初代小西儀助が安政3(1856)年に
薬種業を創業した旧小西家住宅 の現在
の建物は明治36(1903)年に建てら
れた商家(現・コニシ株式会社)である。
 
この町には、通称「神農(しんのう)さ
ん」と呼ばれる神社があり、その隣には
この町の「資料館」がある。
神社にお参りしたあと見学する。
 
 
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資料館では、この町の商いが時代の
変遷により、それも江戸、明治、大
正、昭和から現在に至るまでの薬の
流通のしくみが変わってゆく図の掲
示が印象に残った。
 
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神農(しんのう)さん、少彦名神社
(すくなひこじんじゃ)。
明暦4(1658)年頃から薬種商が集
まり、安永9(1780)年に仲間会所
(現在地)に少彦名神社ができる。
 
この町は新しい薬を開発し、薬の販売
によってなりたっている町で、商店街
というよりも製薬会社のビル街であっ
た。
 
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少彦名神社前の薬関係の会社
 
余談になるが、商店街通りといえ
船場では「南久宝寺町通り」(
御堂筋の東、難波神社の北側の東西
の通り)で、おもに傘や小物、カバ
ンなどのある卸問屋でコーヒ・飲食
店もある。この通りには
人や車が頻繁に通るが、道修町のビ
ル街はこの商店街とちがった趣きが
ある。
 
船場の東側は東横堀川で、道修町の
東端突き当りより北に折れて30
くらいの所に高麗橋がある。
 
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高麗橋の西詰から見る東(大阪城)側
 
大坂城より西に1㎞近くに高麗橋があり、
高麗橋の西界隈が船場になる。
船場には「平五」、「天五」、「鴻池」
の豪商の店がならんでいた。
 
東横堀川の北の端は土佐堀川、南の端は
道頓堀川に通じ、江戸時代に商いの町
坂と呼ばれた頃から船場の道修町(どう
しょうまち)は「道修町クスリヤ多シ」
と地図にも記され、今も薬の町として発
展し続けている。
 
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慶応3(1867)年、伏見屋市兵衛店図(現・小野薬品)
 
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天保3(1832)年「浪華名所独案内」
 
今朝の大阪は、台風による大雨だったが、
幸い大阪市内も大きな被害がなかったよう
で、午後から大阪は晴れて、空が澄んでい
た。
  
9月14日
 商都大阪・船場ー御堂筋と旧西横堀川沿いー新大阪物語(49)