待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)。
璋子が再建した法金剛院(京都市)を西行
法師(1118-1190年)は訪ねる。
西行は法金剛院を訪ねる前に、保元の乱で
敗れた崇徳上皇が配流された地で、血書の
「五部大乗経」を書写している。
世を呪った崇徳帝の悲劇の生涯を思い、西
行は松山の津に渡り、里人に導かれて白峰
にある崇徳帝の墳墓を尋ねあてる。
宝形造りの小さな御堂(崇徳上皇の廟)
西行は、崇徳上皇の心中を思い、1首残す。
よしや君 昔の玉の 床とても 何にかはせん
帝、もうやめましょう。たとえ昔の玉座に
あられたとしても、何になりましょうと詠む。
白峰寺の崇徳廟を訪ねる西行
そして、神無月(11月)のころ。
西行は法金剛院を訪ね、美しい紅葉を
ながめ入って、昔の待賢門院 女院の華
やかな生活を思いだす。
待賢門院 の華やかな生活を思いだす西行
紅葉が美しい法金剛院
璋子が亡くなった時、西行は璋子の女房の
堀川局(ほりかわつぼね)に返しの歌を贈る。
吹く風の ゆくへ知らする 物ならば
花と散るにも 遅れざらまし
吹いてくる風が、行方をしらせてくれるので
あれば、散るにしても、遅れずにお供しま
したのにと。
西行(27歳)17歳年長の璋子(44歳)へ
の恋慕を詠む。
西行法師と待賢門院璋子、崇徳院(メモ)
西行法師(1118-1190年)
西行法師の俗名は佐藤義清(さとうの
りきよ)で、18歳で左衛門尉となり、
鳥羽上皇を護衛
する。
元永元(1118)年
紀伊国竹房で生誕
1119(元永2)年
璋子(18歳) 顕仁を誕生(後に崇徳天皇)
1124(天治元)年
崇徳天皇即位(5歳)
保延元(1135)年
18歳 左兵衛尉に任ぜられる
保延3(1137)年
鳥羽院の北面の武士で奉仕
保延6(1140)年 2
3歳で出家して円位を名のる
後に西行と称する。
1145(久安元)年
待賢門院璋子崩御(44歳)
久安4(1149)年
高野山にはいるその20年後旅に出、
庵をかえ、後に高野山に戻る。
1156(久寿2)年
鳥羽法皇死去。
崇徳上皇(37歳)と後白河天皇の対立
保元の乱。 崇徳上皇は讃岐に流される
1159(平治元)年
平治の乱(後白河帝33歳)
1164(長寛2)年
崇徳帝、配流地讃岐国で死去(55歳)
1185(文治元)年
平氏滅亡(後白河帝59歳)
西行、伊勢国に数年住む。
建久元(1190)年
河内国の弘川寺にて入寂。
2012.12.4
5月14日(火)