天正11(1583)年、
秀吉は根来寺勢力と対抗するために
中村一氏(かずうじ)を城主とした
岸和田城にゆく。
 
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岸和田城(大阪府岸和田市)
 
天正12(1584)年の小牧・長久手の
戦いにて秀吉が出陣中。
根来寺の成真院主であった中左近家の
根来盛重(1555-1641)は徳川家康
に呼応し、根来衆の頭目として和泉国
岸和田城を攻撃する。
 
中村一氏(かずうじ)城主の岸和田城
を守る兵は5千、城を攻める根来勢は
3万にも及ぶ。が、城主中村一氏をは
じめ兵士の奮戦で中盛重はじめ根来勢
は攻め落とせず敗退する。
 
秀吉の軍は小牧・長久手の戦いを終え、
根来攻めを決行。
根来・雑賀の連合軍3万人は根来攻め
に備えて近木川(現貝塚市)付近に、
沢城、畠中城、積善寺城、高井城、千
石堀城に布陣する。
中(中左近)盛吉は畠中(はたなか)
城に、根来(中左近)盛重は積善寺
(しゃくぜんじ)城にろう城。
 

こうして、和泉国近木川付近で両陣営

の合戦が行われた。

 
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中村一氏像(東京大学史料編纂所所蔵模写)
 
秀吉軍の岸和田城主中村一氏の軍は畠中
城を占領し、秀次の軍は千石城を陥落さ
せ、続いて福島正則軍も高井城も陥落さ
せる。
ところが、秀吉方の大軍をもってしても
根来軍の主力積善寺城と沢城は容易には
落ちず。
そこで秀吉は、石山合戦後に関係あった
泉州門徒の中心人物卜半斎了珍を招き、
根来との和解の斡旋を依頼する。
根来・雑賀との縁故も深かった了珍は、
根来・雑賀の説得につとめ、根来勢もこれ
をを受けて積善寺城、沢城を開城する。
 
和解成立後、秀吉は一挙に根来寺を強襲、
壊滅させ、ついで天正13(1585)年4
月22日雑賀の主城太田城を攻め落とし、
遂に近畿の唯一の反抗勢力根来・雑賀衆を
一掃する。
 
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和泉国地図・1749(寛延2)年(「国立公文書館蔵」より)
 
23日、秀吉軍は根来寺に向い、南下
するにあたって、泉南地域の根来寺
方の土豪の城や寺社をことごとく焼き
払う。
 
熊取谷では、このとき中家の城館をは
じめ、円寺(とうえんじ・野田)、
平福寺(大久保)、正法寺(小垣内)、
高倉寺(小谷)・法願寺(朝代)が焼失
した。
 
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岸和田城天守閣から見える雨山(熊取町)
 
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熊取谷の根来盛重の中家の大庄屋屋敷
 
中村一氏城主が、天正12(1584)年鳥
羽(貝塚)での根来勢との合戦の様子を
岸和田城の「天主」より見ていたと文書
に記す。
天守閣からは現在も泉南の貝塚、熊取、
泉佐野をはじめ、大阪のほとんどの地域
が見える。
 
秀吉は紀伊国に侵攻すると、まず根来寺
攻撃し炎上させ、24日には、粉川寺を
焼き討ちした。
根来攻めの後、根来盛重は高野山の富貴
(ふき)に退去して、秀吉が大坂城に戻
ると、熊取谷大垣内村に帰る。
天正13(1585)年8月23日には三河
国浜松において家康と対面し、以後根来
同心(組)を束ねる旗本根来氏の祖とな
る。
根来攻め後の天正13(1585)年に、
秀吉は中村一氏を近江水口へ移し、小
出秀正を藩主とします。
 
天性寺
天性寺は岸和田城が、根来衆に攻めら
れたときに、蛸と法師が救い、その法
師を祀る地蔵尊の寺。
 
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護持山 朝光院 天性寺(浄土宗)
 
天性寺の石碑の銘文によれば、昔、和田
和泉守髙家が岸和田城を築いた建武の頃
に蛸の背に地蔵尊が海辺に現れたが、厚
く扱えないまま百五十余年の歳月流れる。
天正12年3月紀州根来・雑賀衆が攻め
で、城に籠る城主中村孫平次一氏岸の
和田城の敗色が濃くなった日に無数の蛸
と大法師が現れ、衆徒を打ち破ります。
その後、文禄年間泰山和尚の懇望で当天
性寺に移される。という由緒がある。

 
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熊取谷・中家物語と岸和田藩(メモ) 
元弘年間(1331-1334)、熊取谷に
高瀬忠勝に三子がおり、いずれも南朝
に対し忠勤を尽くし、
長男「源次兵衛勝重」、
次男「二郎忠重」、
三男「三四郎重信」
左近」の名を賜る。
 
長男「源次兵衛勝重」は「熊取荘」を領
し、「中左近」と名乗る。
中左近勝重から、約250年経った天正
年間(1573-1592)に子孫15代中左
近盛勝に三子がおり、
長男「中左近盛吉」、
次男「左近左」、
三男「右京進」
が、いずれも豊臣秀吉と戦います。
 
次男左近左は大久保村古井太三郎の養
子となり、中左近盛勝の家督を分離し、
中を苗字とし、「左太夫」を名乗る。
三男右京進は、幼児に根来寺成真院に
入り、後に成真院住持となり「大納言
坊」と称す。
この大納言坊が岸和田城を攻めた根来
衆の頭目根来盛重になる。
 
 
安土・桃山時代                
1555(弘治 元)年 根来盛重生
1575(天正 3)年  慈照寺(五門)を中左近盛行が創立。
1583(天正11)年 羽柴秀吉、家臣中村一氏を岸和田城主とする。
1585(天正13)年 
岸和田城合戦(3月)
秀吉軍と根来衆和泉近木川付近にて合戦(3月20日)
根来盛重は積善寺城にろう城
秀吉軍の根来攻め(8月)
根来盛重、三河国浜松において徳川家康と対面(8月23日)
中村一氏を近江水口へ移し、小出一氏を城主とする。
1600(慶長 5)年  根来盛重が関ヶ原の戦で戦う
江戸時代
1614(慶長19)年 根来盛重 大阪の陣で戦う
1615(慶長20)年 中家住宅建てられる
1641(寛永18)年 根来盛重卒
1726(享保11)年 「後白河法皇行宮の中家由緒書」作成
              (左近盛直が公家の石山師香(もろか)に作成依頼)                1771(明和 8)年 永楽池の築造工事が始まる
1781(天文 元)年 中 盛彬生まれる
1807(文化 4)年 中瑞雲斎生まれる
1853(嘉永 6)年 吉田松陰が中家訪問(3月)
               ペリー上陸(6月)
1858(安政 5)年 中 盛彬卒
1862(文久 2)年 松平春岳政事総裁職に就任
             横井小楠の「国是七条」を幕府に建言
1863(文久 3)年 中瑞雲斎(57歳)・長男莞爾が讃岐へ。           
1866(慶応 2)年 熊取の村むら困窮のため藩に歎願書出す。
             岸和田藩朝廷方につく。
 
 
1月20日(日)
   後白河帝の熊野詣と中家屋敷の行宮ー中家物語(熊取谷)24ー