御堂筋イルミネーションの南の
端は、南北の御堂筋と東西の長
堀通りとが交差する「新橋」で
す。
 
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御堂筋と長堀通りが交差する「新橋」
 
江戸時代の御堂筋は、長堀川(現
長堀通り)には架橋されず、末吉
橋通りで終わっていた。
 
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江戸時代は博労町が南の端になる御堂筋
 
 
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「稲荷神社」で知られた難波神社(博労町)
 
「新橋」が御堂筋沿いに架けられた
のは、大正15(1926)年、關一市
長の都市計画の地下鉄御堂筋建設の
ときで、翌年5月に完成します。
 
昭和39(1964)年には長堀川は埋
め立てられ、長堀川の跡に長堀通り
が整備され、新橋のあった場所が新
橋交差点になる。
 
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新橋交差点を西に向かうと四ツ
橋で、長堀通りの四ツ橋は南北
の「四ツ橋筋」と交差する。
さらに長堀通りの西に行くと
「西大橋」で、「なにわ筋」
交差する。
長堀通りの交差点「西大橋」
より「なにわ筋」の北、新町南
公園にて「ここに砂場あり」の
史蹟がある場所に着く。
 
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新町にある「ここに砂場ありき」
 
 

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          「新町南公園」と「なにわ筋」の北側 
 
 
「ここに砂場ありき」の石碑の裏面に
由来が記されている。
本邦麺類店発祥の地 大阪築城史蹟
・新町砂場
天正11(1583)年9月、豊太閤
秀吉公大阪築城を開始、浪花の町に
数多、膨大を極めし資材蓄積場設け
らる。ここ新町には砂の類置かれ、
通称「砂場」と呼びて、人夫、工事
関係者日夜雲集す。人集まる所食を
要す。
早くも翌天正12年、古文書「二千
年袖鑒」に、麺類店12麺類店「い
づみや 津の国屋」など開業とある。
即ちこの地、大阪築城史蹟にして、
また、本邦麺類店発祥の地なり。
       坂田孝造・識
 
 
「新町」といえば、豊臣秀吉が大坂城
を築城するときに、築城資材の砂や砂
利を置いたところ(「砂場」)で、
時は、川沿いにあって、遊郭もあり賑
わっていた。
また江戸時代の新町の「砂場」には
「そば屋」さんの店もあり、屋号なし
で「すなば」と呼んだりもする。
この新町に大阪南部の熊取谷(現在
大阪府泉南郡熊取町)の中家一族が
「いづみや」の店を出している。
 
 
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「摂津名所図会」(のれんに「すな場」)
 
 
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「川口遊郭図屏風」
 
江戸時代の「摂津名所図会」には
説明文が添えられている。
新町西口南の町の地名なり。ここ
に麺類を商う店がある。
難波の名物で、遠くよりここに
集まってくること、日々数百に
及ぶ。
「ひさし」に「うたろう」を葺
(ふ)いて火災を除くように用
います。
初めは和泉国熊取郷五門村の産、
その類族かの地にありとなん。
中氏(なかうじ)といふ。
 
ところで、御堂筋の沿いにある
難波神社(大阪市中央区博労町
4丁目)の南側の鳥居には「新
町」と刻印さています。
 
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新町は現在もそうですが、難波神社
氏子になるそうです。
江戸時代の頃より「商売繁昌の守り
神」として知られていた。
豊臣秀吉が大阪城三の丸を築くとき
に、町家17000戸が立ち退きさせ、
立ち退きのほとんどの人が、この界
隈「船場」に移ってきます。
船場は大阪で最大の繁華街になり、
「新町」が賑わいます。
 
江戸時代のこの辺りの1832(天保3)
年の「浪華名所独案内」(大阪歴史博
物館蔵)の地図。
 

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1832(天保3)年作成された大阪
の名所や店舗の案内「浪華名所独案内」
(なにわめいしょうひとりあんない)
では難波神社を「イナリ社」と記して
いる。
「イナリ社」は摂津国総社で、この
場所の地名が「上難波」で、難波の
中心地にあり、「難波神社」と呼ば
れている。
南町は難波神社の氏子です。
 
江戸時代の頃、難波神社前の御堂
沿いの長堀川には橋が架かって
いなかった。
難波神社の西側に西横掘川(現在
は阪神高速道路・昭和41年開通)
があって、さらに、西横掘川の西
に立賣川があります。
大坂は川、橋が多く「水の都」だ
と言われる由縁です。
新町には「新町廓」と記されてい
る。
  
この日は新町の「砂場」 を訪ね
ますがわからず、いきついたと
ころが西区役所で、区役所で尋
ね、西区役所より長堀通りを歩
いて「砂場」にやって来る。
さらに新橋にくると、「御堂筋」
のイルミネーションに出合い、
その美しさに驚きました。
 
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11月6日(火)
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 12月29日(土)
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