中左近は、中世の和泉国泉南の熊取荘
の土豪である。
中家(熊取荘五門)は代々左近を名の
り、中左近家とよばれている。
 
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       大久保の降井家(中家)は五門の中家と同じ通りにある。
        
熊取谷(くまとりだに)の中家と紀伊
国根来寺のつながりは深く、中家は根
来寺の成真院に子弟を送り、根来成
真院の代官として熊取庄及びその周辺
の村々の陸運・畜産業・麹商などを独
占してこの地域を治めている。
根来寺の武力・勢力を背景にして和泉
国や紀伊国北部の田畑を買い集め、
治、経済に力をもち、支配する。
 
1584(天正12)年の小牧・長久
手の戦いにて秀吉が出陣中、徳川家康
に応じて根来寺の成真院主であった
左近家の根来盛重(中盛重1555-
1641)は、 根来衆の頭目として和
泉国岸和田城を攻撃する。
 
 
 
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岸和田合戦・根来出城図
 
大阪をめざした中左近家の根来盛重
の根来勢は3万、一方岸和田城を守
る兵は5千。
ところが、城の兵士の奮戦で岸和田
城攻めは苦戦し、中盛彬根来勢は敗
退する。
 
根来衆に攻められ落城の危機になっ
たときに数千の蛸(タコ)と一人の
法師があらわれ城を救う。
法師は地蔵菩薩の化神で、地蔵菩薩
は天性寺に祀られている。
 
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翌1585年(天正13)3月秀吉軍
の根来攻めに備えて中盛吉(左近)は
畠中(はたなか)城に中左近盛重は積
善寺(しゃくぜんじ)城にろう城する
が、無血開城で退去す。
和泉国で激しい合戦があったのは千石
掘城(貝塚市)のみだった。
 
根来寺の成真院主であった中盛重は、
徳川家直臣として、関ヶ原の合戦、大
坂の陣で戦う。
 
江戸時代の幕藩体制下での中家は、
和田藩の郷士代官や岡部城主のもとで
七人庄屋の筆頭を勤める。
熊取谷(くまとりだに)の年貢徴収や
年寄・組頭の決定を委ねられ、岸和田
藩経済にも貢献する。
苗字帯刀を許され、武士待遇を受けて
明治までつづく。
 
江戸期にはいって中左近盛重の中家は
中左大夫家を名乗り、明治以降は降井
家と呼び名をかえる。
 
 
根来寺と熊取谷
応仁の乱(1467年)以後和泉の国
も下剋上の時代にはいり、熊取に館
をかまえていた守護細川氏の家臣行松
(ゆきまつ)氏も、次つぎと耕地や屋
敷を手放していく。
この頃に守護をはじめ根来寺が武力を
蓄え、泉南地方まで出兵するようにな
る。
九条政基の居所から見た雨山(正面・
北)。
雨山(熊取町)頂上には雨山城、左
(西)尾根沿いに土丸城がある。
 
 
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熊取荘のなかには村があった。
前関白九条政基が日根荘領主のときの
「旅引付」(日記)に熊取谷、根来寺
のことが記されている。
1504(文亀)年4月5日
(日根荘領主九条政基の日記「旅引付」)
紀州の根来・粉川の勢力が山を越えて
攻撃しかけた時。
危険を知った日根野村の村人はその進
路をそらせる。
朝代の家二軒を焼き、その煙で熊取村
に危険を知らせた。
熊取の村人たちは、村全体に火をかけ
ようとした根来衆に許しを乞う。
けっきょく、和泉守護給人(家来)の
館三カ所を焼かれただけで難をまぬが
れた。
 
 
秀吉の根来攻めにより、根来寺はすべ
て灰塵(はいじん)となるが、大塔(
国宝)は残る。
 
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                 根来攻めの戦乱の弾痕が残る大塔。
 
根来寺から少し離れた南西に「中
左近池」があり、中左近家は根来
寺周辺の用水池づくりにもかかわ
っていたことを知ることができる。
 
 
 
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根来寺の西側根来ゴルフクラブの西隣にある中左近池。
 
 
秀吉の根来攻めにあった根来衆。
1585(天正13)年8月、中盛重
は根来衆を率いて三河国(みかわのく
に)浜松を訪れてと家康と対面してい
る。
 
 
 
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熊取・中家の歴史(メモ)
奈良時代
757年(天平勝宝9) 和泉国(大鳥・和泉・日根の三郡)の日根郡に属する。
平安時代 
794(延歴13)年   垣武天皇は都を京都の平安京に移す。 
805(延歴24)年   桓武天皇が「熊取野」に狩猟。熊取はまだ未開の原野。   
1086(応徳3)年   白河上皇が院政をはじめる。(院政時代)
 
1156(久寿2)年   鳥羽法皇死去(後白河帝30歳)保元の乱
              清盛の後白河天皇方が崇徳上皇方を破る。
              崇徳上皇は讃岐に流される
1157(保元2)年   後白河帝熊野行幸(31歳)
              後白河帝が熊野詣、中家に立寄る(伝承)
1158(保元3)年   後白河上皇院政を始める(二条天皇に譲位)(後白河帝32歳)         
1159(平治元)年   平治の乱(後白河帝33歳、)                      
1192(建久3)年   後白河法皇死去(66歳)
鎌倉時代              
1192(建久3)年   源頼朝が鎌倉に幕府を開く。
1297(永仁5)年   慈照寺、法燈国師により開基
1316(正和5)年   「日根野村荒野絵図」の中に「熊取」の地名
1334(建武元)年  日根郡熊取庄地頭職に湯浅木本宗元
室町時代
1336(建武3)年   足利尊氏が室町に幕府を開く。
1346(貞和2)年   橋本正督が雨山城を築く
1504(文亀4)年   紀州の根来衆熊取谷を襲う。
1555(弘治元)年   根来盛重生まれる
安土・桃山時代       
1573(天正元)年   安土・桃山時代(信長・秀吉)             
1575(天正3)年   慈照寺(五門)を中左近盛行が創立。
1585(天正13)年  秀吉軍の根来攻め(8月)
              根来盛重は積善寺城にろう城
1600(慶長 5)年  根来盛重が関ヶ原の戦で戦う
江戸時代
1603年   徳川家康、江戸幕府を開く
1614(慶長19)年 根来盛重 大阪の陣で戦う
1615(慶長20)年 中家住宅建てられる
1641(寛永18)年 根来盛重卒
1726(享保11)年 「後白河法皇行宮の中家由緒書」作成
              左近盛直が公家の石山師香(もろか)に作成依頼)               11771(明和 8)年 永楽池の築造工事が始まる
1781(天文 元)年 中 盛彬生まれる
1807(文化 4)年 中瑞雲斎生まれる
1853(嘉永 6)年 吉田松陰が中家訪問(3月)
               ペリー上陸(6月)
1858(安政 5)年 中 盛彬卒
1862(文久 2)年 松平春岳政事総裁職に就任
             横井小楠の「国是七条」を幕府に建言
1863(文久 3)年 中瑞雲斎(57歳)・長男莞爾が讃岐へ。           
1866(慶応 2)年 熊取の村むら困窮のため藩に歎願書出す。
             岸和田藩朝廷方につく。
1867(慶応 3)年 大政奉還(10月)、王政復興(11月)
明治時代
1868(明治 元)年 戊辰戦争起こる(1月)(~明治2年)
             中克己・鼎(かなえ)・健の3人が官軍に従軍。 
1868(明治 元)年 崇徳天皇の神霊、遷還される。(9月)
1869(明治 2)年 版籍奉還(熊取は岸和田藩)
             横井小楠暗殺事件(1月)
1870(明治 3)年 公卿外山光輔を盟主とした政府転覆計画が発覚。
             11月23日、刑が確定
1871(明治 4)年 廃藩置県(熊取は岸和田県)                  
             12月3日 中瑞雲斎(65歳)卒
1872(明治 5)年 区制実施(熊取は堺県第21区
1881(明治14)年 堺県廃止(熊取は大阪府へ合併)
1896(明治29)年 南郡と日根郡合併し泉南郡が設置
             (大阪府泉南郡熊取村)
1906(明治40)年 人口5042人 
1908(明治41) 神社合祀政策(熊取の神社は大森神社に合祀)                    
1912年   大正時代
1912(大正元)年  人口5989人
1914(大正3)年  中瑞雲斎の事績を顕彰する陳情書
1926年   昭和時代
1947(昭和22)年 熊取村立中学校設立
1951(昭和26)年 町制施行(大阪府泉南郡熊取町)
1968(昭和43)年 永楽ダムを完成                                       1977(昭和52)年 人口2万人越える
1989年   平成時代
1995(平成 7)年 人口4万人越える             
                
 
熊取町(メモ)
人口  約45000人
世帯  約17000世帯
位置  大阪府南部
     関西空港の東隣
     南北約8㎞、東西約5㎞
交通  JR阪和線
     国道170号線(大阪外環状線)
 
 
7月31日(火)
  中盛彬と熊取谷ー「中家物語」(江戸時代後期)8-