北欧4カ国旅行記11

歴史

古代はスウェーデン・ヴァイキング(ヴァリャーグ)として主に東方で活動した。

ヨーロッパ文化やキリスト教も受容し、13世紀頃にはフォルクンガ朝が現在のフィンランドを含む地域を統一。

1397年にデンマーク・ノルウェーとカルマル同盟を結んで同君連合を形成する。

1523年、カルマル同盟から離脱し王政となる(ヴァーサ朝)。

             11-1船のデッキ

16世紀の宗教改革ではプロテスタントを受容し、バルト海地域へ進出する。

17世紀にグスタフ2世アドルフ(獅子王)の時代にバルト帝国を建国する。

新大陸にも植民地を築き、王国は最盛期を迎える。

1654年にプファルツ朝に王朝替えするもバルト帝国を維持。

しかし18世紀初頭にカール12世はバルト海の覇権を争い、ピョートル1世の時代のロシア帝国と大北方戦争で戦って敗れ、沿岸の領土を失い一時没落する。

18世紀後半にホルシュタイン=ゴットルプ朝のグスタフ3世が中興させるも、ナポレオン戦争の経過によって、フィンランドを失った。

1809年の革命で立憲君主制が成立、1814年にキール条約でノルウェーを併合。

1818年よりフランス人ベルナドット元帥(カール14世ヨハン)が国王に即位しベルナドッテ朝が始まる。

ウィーン体制ではノルウェーと同君連合(1814年 - 1905年)を結ぶが、1905年に分離。19世紀半ばにスウェーデン王の推奨した汎スカンディナヴィア主義が頓挫し、北欧は小国化に向かう。

                11-2航海中

1914年からの第一次世界大戦では中立であったが、ドイツ帝国がワシントンへ送る外交電文をストックホルムへ経由させて再暗号化してやったり、それをイギリスから非難されてからもブエノスアイレスのスウェーデン大使館を経由させたりして、結果的には逆に英国がドイツの外交電文を解読する機会をつくった。

1932年にスウェーデン社会民主労働党政権となり、以降のスウェーデンは福祉国家路線が支配的イデオロギーとなった。

 

スウェーデン王国3

武装中立政策を取り、第一次世界大戦、第二次世界大戦の両大戦にも参加していないが、両大戦とも義勇軍を組織していた事は事実である。

第二次大戦の中立違反の政策は、戦中も戦後も、国内外から批判を浴びている。

ただし、当時は連合国も枢軸国も国際法を守っておらず、一方的に批判されることではなく、デンマーク、ノルウェー、フィンランド人の反ナチス、レジスタンスを匿い、ユダヤ人を保護したことは、人道にもっとも重きを置いた決定と言える。

また、大日本帝国政府の終戦の事前交渉も行なっている。

             11-3島

東西冷戦中は、ノルディックバランスを構築し、アメリカ寄りの政策と中立主義政策を行き来したが、冷戦終結後は、中立主義を放棄し(軍事的非同盟と定義しなおし)、1995年にオーストリア、フィンランドとともに欧州連合 (EU) に加盟した。北欧諸国の中ではデンマークが1973年にEUに加盟している。

ストックホルム

ストックホルムは、スウェーデンの首都で、スウェーデン最大の都市である。

北欧を代表する世界都市であり、2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第33位の都市と評価された。

ストックホルム県に属す、人口は約75万人、「水の都」、「北欧のヴェネツィア」ともいわれ、水の上に浮いているような都市景観をもつ。

北欧で最大の人口を誇り、バルト海沿岸では、サンクトペテルブルクに次いで第2位、912年に第5回夏季オリンピックが開催された。

13世紀の半ばにスウェーデン東部のメーラレン湖東にある小島スタツホルメン島に砦として築かれたのが最初である。

1250年代に即位したとされるフォルクンガ王朝初代国王ビルイェル・ヤールによる。

砦としてだけでなく、都市としての機能も形成されて行く。

戦闘に備えて、島を囲むように丸太の柵が巡らされていた為に、「丸太の小島」と呼ばれるようになった。

        11-4同じ船のようですね

これはスウェーデン語で「ストックホルム」と言う。

都市は次第に拡大し、近郊の小島などに広がって行き、都市の名も「ストックホルム」として落ち着いた。

都市の始まりとして築かれたスタツホルメン島は、「ガムラスタン(旧市街)」と呼ばれ、昔ながらの中世の建物が建ち並んでいる。