ドイツ・フランス旅行記4

ローテンブルク紹介4

1356年のバーゼル地震で古い城塞が崩壊したが、今もなお聖バルシウス教会が残っている。

その廃墟の切石は当時としては貴重な資材であり、市壁の建造に用いられた。

17世紀のローテンブルク 、中世のこの町で最も有名な人物は、エネルギッシュな政策で知られた市長ハインリヒ・トップラー(1340年頃生 - 1408年没)であろう。

1373年にはトップラーが市長に就任した(1408年まで在任)、ヤコブ教会の増築を決定。

また1398年には聖ヤコブ教会の建設をドイツ騎士団から引き継ぎ、聖ヤコブ教会は市所有の教会となった。

それと同時に、ゴシック様式の市庁舎の建設も始まった。

1378年、ローテンブルクはウルムを盟主とするシュヴァーベン都市連盟に加盟した。

1400年ごろまでには、ローテンブルクはフランケン地方の中ではニュルンベルクに次ぐ第二位の人口を抱える都市となったのです。

1485年には、170年掛けて建設された聖ヤコブ教会が落成し、現在までよく保存されている。

1525年、ドイツ農民戦争において、ローテンブルクはフロリアン・ガイアー率いる反乱軍側につき、プロテスタントに改宗しようとしたが、最終的にローテンブルクの守将 Kasimir は降伏した。

Johann Teuschlein ら反乱者が処刑された。

1544年、ローテンブルクは Johann Hornburg 市長の時代に遂にプロテスタントへの改宗を達成した。

所謂宗教改革である。

ローテンブルク紹介4

1559年にはプロテスタントの教会規則が公布され。

聖ジョンの騎士団とドイツ騎士団だけが引き続きカトリックを信仰したが、これらの騎士修道会もそれぞれの教会(聖ジョン教会、聖ヨハネ教会)への権利を手放さねばならなかった。

1572年、1501年に焼失した市庁舎の東側の再建が始まり、その後、三十年戦争が勃発するまでの間、街は繁栄した。

1618年に勃発し1648年まで続いた三十年戦争の時代、ローテンブルクも戦費の負担や通過する友軍への便宜供与などを行った。

1631年、1634年、1645年にローテンブルク付近で戦闘があった。

1631年10月にカトリックのティリー伯ヨハン・セルクラエスが、プロテスタントのルター派のローテンブルクに40,000人の軍隊の宿営を求めたが、街はこれを拒否し、籠城して守り抜こうとした。

しかしながら、ティリー伯の軍隊は300人の兵を失っただけで、間もなくローテンブルクを陥落させた。

「街に火を放ち掠奪する」と脅したティリー伯から旧市長のヌッシュが街を救った成り行きは、現在も毎年開催される街の祝祭劇「マイスタートゥルンク」の話の元になっている。

帝国都市連合は1632年-1634年にかけてスウェーデンと同盟し。

1634年にはペストの大流行によって多くの死者が出た。

1645年にフランスの軍隊に占領されたが、1650年に最後の兵士が街を去ると、この街にはもはや財産も権力もなくなり、ローテンブルクの街の発展は停滞し、街はその重要性を失っていった。

これは、街が17世紀のままの状態で保存された理由である。

1900年頃のローテンブルク

1688年の大同盟戦争では、フランスの侵攻を受けてドイツ側の軍隊(ラントヴェーア)は大損害を受けたがローテンブルクは占領されなかった。

街の再建は18世紀まで続いた。

1793年のフランス革命戦争もこの地に大きな騒乱をもたらした。

この頃、既にアンスバッハ侯領とバイロイト侯領を引き継いだプロイセン王国はローテンブルクとの間で国境を画定する合意書に署名している。

この事は、ローテンブルクのような小さな帝国都市であっても、その独立性を認められていた事を意味している。

 

写真 1.2ローテンブルクの街並み3ホテルの前