所有している書状の解読をすすめました。


真田幸教から鍋島直亮への書状


-真田信濃守幸教:真田幸教。
 信濃松代藩の第9代藩主(1852年~1866年)。
-鍋島加賀守:鍋島直亮。
 肥前小城藩の第10代藩主(1850年~1864年)。
-公方:徳川家定もしくは徳川家茂。
 <徳川家定>
 江戸幕府の第13代将軍(1853年~1858年)。
 <徳川家茂>
 江戸幕府の第14代将軍(1858年~1866年)。

に対して、書状の時期推定をしてみます。

 

・真田幸教が藩主になったのが嘉永5(1852)年5月6日。

伊豆守幸孝から信濃守幸教に改めたのも、

http://codh.rois.ac.jp/bukan/ の「武鑑全集」からは、藩主になった時期ごろの模様。

さらに、隠居が慶応2(1866)年3月9日ではあっても、すぐには信濃守を使用継続で、少ししてから右京大夫になった模様。

 

・1852年~1867年での鍋島加賀守は鍋島直亮。鍋島直亮は、1864年2月27日に死亡

・1852年~1863年の6月で将軍家が公方の一人であるのは、嘉永6(1853)年10月23日~安政5(1858)年7月6日の徳川家定か、安政5(1858)年12月1日~の徳川家茂

・鍋島の御暇についての書状であり、武鑑から鍋島の御暇時期を確認すると、

武鑑の発行年ごとに微妙に違い

 1852~1860年では子寅辰午申戌の4月、

 1861年では子寅辰午申戌の2月、

 1862年では子寅辰午申戌の4月、

 1863年では丑辰未戌の7月、

 1864年では子寅卯巳午申酉亥の7月

となっており、子寅辰午申戌が西暦の偶数年であるため、

 1854年6月~1862年6月の書状である

 

以上から、

嘉永7(1854)年~文久2(1862)年の真田幸教から鍋島直亮への(鍋島の御暇についての)書状(返書)

とみました。

 

ただ、差出と宛名の二人の関係性はよくわからないままなので、継続して深堀したいです。