先日落札した書状の解読をすすめました。


徳川斉朝からの書状


-尾張中納言斉朝:徳川斉朝。
 尾張藩の第10代藩主(1800年~1827年)。

 

・徳川斉朝が権中納言になったのが文化5(1808)年12月1日、隠居が文政10(1827)年8月15日、権大納言になったのが天保6(1835)年。

http://codh.rois.ac.jp/bukan/ の「武鑑全集」から、以下のように隠居後でも尾張中納言と名乗り。

・「上意」に続いての大納言であり、老中の話も出てくるため、公家の大納言や他の御三家等の大納言ではなく将軍家の大納言と推定。

 1809年4月~1835年の将軍家の大納言は、寛政9(1797)年3月1日~文化13(1816)年4月2日の徳川家慶と、文政11(1828)年4月4日~天保8(1837)年9月2日の徳川家定 
・文化6(1809)年~文化12(1815)年もしくは文政11(1828)年~天保6(1835)年における渡邉半蔵は、尾張藩家臣の渡辺規綱もしくは渡辺寧綱。渡辺規綱は文化元(1804)年~文政2(1819)年、渡辺寧綱は文政2(1819)年~万延元(1860)年が当主

 

以上から、

文化6(1809)年~文化12(1815)年もしくは文政11(1828)年~天保6(1835)年の徳川斉朝からの書状

と推測しました。

 

宛名は削除されていますが、「恐惶謹言」ではなく「恐々謹言」ではありつつも花押もあり、入国の話などを送る相手であるため、家臣ではなく、幕臣や他大名と推測しました。

 

また、さすが尾張中納言だからか、老中に「御」がついていないことが気になりました。