先日落札した書状の解読をすすめました。


本多正永・小笠原長重からの堀親賢への書状


前回は翻刻と人物特定のみでしたので、今回は時代推定等を行います。

 

-本多伯耆守正永:本多正永。
 下総舟戸藩の藩主(1688年~1703年)。
 上野沼田藩の初代藩主(1703年~1711年)。
 老中。
-小笠原佐渡守長重:小笠原長重。
 三河吉田藩の第4代藩主(1690年~1697年)。
 武蔵岩槻藩の初代藩主(1697年~1710年)。
 老中。
-堀大和守:堀親賢。
 信濃飯田藩の第4代藩主(1697年~1715年)。

・「披露」、「恐々謹言」、宛名が「殿」であることから老中奉書(老中返札)と判断

・本多正永は宝永元(1704)年9月27日~12月5日に老中、そこからは西丸、宝永6(1709)年1月10日に再度老中も兼ね、正徳元(1711)年4月2日に職を辞す                                
・小笠原長重は元禄10(1697)年4月19日~宝永2(1705)年8月27日に老中、そこからは西丸、宝永6(1709)年1月10日から宝永7(1710)年5月18日を再度老中                                
・本多正永と小笠原長重が共に老中なのは宝永6(1709)年5月か宝永7(1710)年5月。共に西丸老中なのは宝永3(1706)年5月~宝永5(1708)年5月                                
・1706年~1710年の堀大和守は、堀親賢。大和守になったのは元禄11(1698)年、石見守になったのは正徳3(1713)年                                
・1706年~1708年5月の西丸、1709年~1710年の公方は徳川家宣

 

以上から、

 宝永3(1706)年~宝永7(1710)年の

 本多正永・小笠原長重からの堀親賢への

 (徳川家宣への端午のお祝いに対する連署の)老中奉書(老中返札)

と判断しました。