入手済みの書状の解読を進めました。

 

戸田忠温から山中俊信への(将軍家から徳川家茂への鷹之鶴に対するお礼への)老中奉書(老中返札)です。

戸田忠温から山中俊信への書状


-戸田山城守忠温:戸田忠温。
 下野宇都宮藩の第4代藩主(1823年~1851年)。
 老中。
-山中筑後守:山中俊信。
 紀伊藩の家老。
-公方:徳川家慶。
 江戸幕府の第12代将軍(1837年~1853年)。
-右大将:徳川家定。
 後の第13代将軍(1853年~1858年)。
-菊千代:徳川家茂(徳川慶福)。
 紀伊紀伊藩の第13代藩主(1849年~1858年)。
 江戸幕府の後の第14代将軍(1858年~1866年)。

・文中に「各申談」「上聞」とあり、宛所の敬称が「殿」であることから、老中奉書(老中返札)と判断
・1823年~1851年の間で、将軍家が公方・右大将の二人であるのは、徳川家斉が死亡した天保12(1841)年閏1月30日以降
・戸田忠温の老中になったのが弘化2(1845)年3月18日、死亡が嘉永4(1851)年7月26日であるので、3月9日は1846年~1851年
・1841年~1851年での菊千代は、弘化3(1846)年 閏5月24日に誕生の徳川家茂(慶福)
・旧臘の表現から、3月は菊千代が誕生した後の1847年~1851年

までは確認できていたのですが、時代推定を深堀してみます。

 

・徳川家茂は、嘉永2(1849)年閏4月2日に紀州藩主、嘉永4(1851)年10月9日に元服し慶福と名乗り

・山中筑後守俊信は紀伊藩の家老で、第10代藩主の徳川治宝が隠居後にも重用。嘉永5(1852)年9月25日に死亡。武鑑に家老として登場するのは嘉永3(1850)年~嘉永6(1853)年

 ※http://codh.rois.ac.jp/bukan/ の「武鑑全集」から下記2画像、1849年と1850年の大成武鑑

 

これらにより、将軍から「鷹の鶴」(将軍が鷹狩りでとらえた鶴)を貰うので菊千代が藩主時代、老中から書状の宛名になるので山中が家老時代と踏まえると、嘉永3(1850)年か嘉永4(1851)年3月と推定できました。

 

大成武鑑大成武鑑

 

古文書を学習中のため練習で翻刻してみました。間違いにお気づきの方、お教えくださいませ。

御書致拝見候
公方様 右大将様益
御機嫌能被成御座目出度
思召旨尤之御事候旧臘
十五日菊千代殿江以
上使御鷹之鶴被成之忝由
得其意存候御紙面之趣
各申談及
上聞候此旨可有洩達候
恐々謹言
    戸田山城守
 三月九日 忠温(花押)

 

  山中筑後守殿