色々ストレスが溜まって寝込んでいた。
そしたら、今まで溜めこんでいた感情が、一氣に出てきた。
ちょっとずつその感情を消化していくために、過去に感じていたことを書いていきたい。
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ワタシには友達が少なかった。
それが氣に病んでいたことだった。
でも学校では「みんな仲良くすべき」なんてやる。
それが苦痛でしかなかった。
かつて「イジメ」を受けていたワタシ。
他人を肉体的・精神的に苦しめてくる人間と、どうやって共存しろと?
でも、多くの大人は、ただ「みんな仲良くすべき」としか言わない。
「どうしたらいい?」と尋ねた所で誰も答えを持っていない。
そして、大人は、往々にして「イジメ」を受ける側に我慢を強いる。
もうちょっと年を取ると、「大人になれ」なんて言われたりする。
それは間違いなく「我慢しろ」というのとほぼ同義。
子どもの頃は、この違和感を言語化できなかった。
この違和感が、更にワタシをズタズタにしていた。
「あ、誰もワタシのことを理解してくれる大人なんていないんだ」って。
そんな小さい頃を思い出して、今、泣いている。
心が痛くて仕方がない。
この感覚が、最近までずっと尾を引いていたことに氣付く。
仲良くできるのであれば、それに越したことはない。
でも、「みんな仲良くす『べき』」なんていうのは、絵空事。
それは、「いじめ」や「いさかい」なんて「存在してはいけない」という論理になってしまう。
その結果だろうか、学校でも社会でも、誰も「いじめ」や「いさかい」の存在を認めたがらない。
世間様から叩かれるのが怖いから、しぶしぶ認めているだけ。
だから、この国の多くの人間が病んでんだよ。
「ある」ものを「ない(=あってはいけない)」と言って、お互い我慢させているんだから。
そんな古臭い不幸の擦り付け合いやめようや、ホンマに。
基本線は「仲良く」でいいのだけれども、壊滅的に共存できない相手だって、残念ながらいる。
「危ない」と思ったらすぐに逃げたらいいんだよ。
力が戻ってきたら…その時に行きたい所に行けばいいのだから。
でも、別の世界に行ったら、
何でも話せる友人、無条件に一緒にいて楽しいと思える友人が、ちゃんといる。
そのおかげで、救われてきたし、癒されてきたし、
そして何より、ワタシも今こうして生きている。
書き切ったら、また泣けてきた。