先日。月刊絵手紙 5月号が
ポストに届きました。
 
今月の特集は
母の日によせて「正岡子規と母 八重」

友人、門人と広く多くの人に慕われた
俳人・正岡子規。
病と生きる子規を支え、見守った母・八重。
互いを想う子規と八重との間に流れた
おだやかな時間を読み解いています。

子規の俳句の中の母には
子規の病を懸命に看病してくれた
母への感謝が感じ取れます。

ウィキペディアで
【正岡子規】について調べてみました。

慶応3年、現・愛媛県松山市花園町に父・松山藩士正岡常尚と母・八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女。
明治5年、幼くして父が没したために家督を相続した。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。
明治13年、旧制松山中学(現・松山東高等学校)に入学。明治16年、同校を中退して上京、共立学校(現・開成高等学校)に入学。
翌年、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学。明治23年、帝国大学哲学科に進学したものの、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。
松山中、共立学校で同級だった秋山真之(海軍軍人)とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計(大蔵官僚、政治家)がいた。東大予備門では夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと同窓。
大学中退後、新聞記者となり、家族を呼び寄せて東京を文芸活動の拠点とした。明治26年に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。
日清戦争が勃発すると、従軍記者として遼東半島に渡ったものの、下関条約が調印されたため、軍医部長の森林太郎(鴎外)らに挨拶をして帰国の途についた。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。松山に帰郷した。
喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。
俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
明治29年、脊椎カリエスを発症していると診断。
明治32年以後は座ることさえ困難になり、子規は約3年間ほぼ寝たきりで、苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、また病床を訪れた高浜虚子・河東碧梧桐・伊藤左千夫・長塚節ら後進の指導をし続けた。

短歌においても、「歌よみに与ふる書」を連載。根岸短歌会を主催。根岸短歌会は、のちに伊藤左千夫らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。

短い生涯において俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。
俳句においてはいわゆる月並俳諧の陳腐を否定し、松尾芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って与謝蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績をあげた。またヨーロッパの影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓しました。

時々、絵手紙に寄せて俳句を親しんでいる
私ですが、
正岡子規の生涯を改めて知りました。
写真の横顔のイメージが強かったのですが
こんなに壮絶な人生を送っていて
しかも、それでも句会などを開き
周りの仲間に親しまれた正岡子規は
俳句の才能だけではなく人間としても大変魅力的な方だったのだろうと想像します。
子規の生涯は病との共存であり
それを支えた八重さん無くしては
子規の文芸活動は成り立たなかったと思われます。



今月号の月刊絵手紙では
正岡子規の母への想いや
周りの方から見た母・八重さんと子規の関係の
エピソードなどが
残された手紙や子規の描いた絵画、書物、
「子規居士幼時(子規母堂談)」などからの抜粋などにより特集されて
人間としての正岡子規にフォーカスされており
とても興味深い特集になっています。


そして。そして。

 

 

私の絵手紙が

ひろば

今月のテーマ”もう一度行ってみたい場所”

「思い出いろいろ」(40p)に掲載されています。

 

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