杉本健吉はこんな言葉を残している。
 
秋艸道人の『鹿鳴集』は私のバイブルである。
奈良を歩くときは手離さず、その時その場で
ハミングしてみる。先生の歌は声に出して一
層の感銘の度を増す。(「夜半三月堂」より)
 
秋艸道人というのは知れずと知れた会津八一
日本の歌人。美術史家。書家。である。
また、逆に会津八一は杉本健吉のことを
こう言っている。
 
杉本といふ画家の腕まへほんとに関心いたし候。
 
「上司海雲宛 會津八一書簡 昭和21年4月27日」
 
杉本健吉と会津八一は
2人合作の歌書画集などをたくさん世に出しており
互いに尊敬しあう良き関係であったようです。
 
会津八一は
新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。
1881年(明治14年)8月1日に生まれたことから
八一(やいち)と名付けられました。
中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。
1900年新潟尋常中学校卒業後、東京専門学校に入学、坪内逍遙や小泉八雲らの講義を聴講。
1906年早稲田大学英文科卒業。卒業後は新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残した。
1908年に最初の奈良旅行をおこなって
奈良の仏教美術へ関心を持ち、
またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなった。

1914年小石川区高田豊川町に転居、「秋艸堂」と名付ける。
1922年東京郊外の落合村に転居し、やはり「秋艸堂」と名付けた。
1924年初の歌集『南京新唱』を刊行。
1926年早稲田大学文学部講師(美術史関連の講師)として研究のためにしばしば奈良へ旅行した。
1933年に仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行。
1940年、歌集『鹿鳴集』を刊行。
1941年、書画図録『渾齋近墨』
1942年、随筆集『渾齋随筆』
1944年、歌集『山光集』をそれぞれ刊行。
1945年、早稲田大学教授を辞任。
空襲により罹災し、秋艸堂が全焼したため新潟に帰郷。
1946年7月新潟随一の大地主であった7代目伊藤文吉別邸(現、北方文化博物館新潟分館)内の洋館を「南浜・秋艸堂」と呼んで、永眠するまで新潟随一の暮らした。


東大寺大佛開眼千二百五十年慶讃大法要の際
作られた散華は
杉本健吉と会津八一のコラボ作品である。