杉本健吉について
調べている。
時々
備忘録として綴ってみようと思います。

JAFメイトのページより
杉本健吉についての説明を見つけました。
引用してみます。
https://jafmate.jp/blog/senjin/-9819052004.html

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すごい先人に会いに行く
第1回 自由でお茶目。「描くために生きた」98年 
●画家・杉本健吉(1905~2004)

明治、大正、昭和、平成にわたる98年の生涯を、
絵とともに生きた画家・杉本健吉を知っていますか?

絵の具を布団に入れて寝るほど、小さい頃から絵が大好き。
当然、絵描きになりたかった杉本少年ですが、とある洋画家に
「絵は趣味でやり、生活を支える職業は図案家(今で言うグラフィックデザイナー)として勉強しなさい」と言われ、
工業学校の図案科に進学。
18歳で卒業後は企業に就職し、図案などの仕事に従事します。
そのかたわら、20歳で岸田劉生に弟子入り、
本格的に絵画の道も歩み始めるのです。

22歳になると図案家として独立、
名古屋鉄道(名鉄)の観光ポスターなどを多数手がけるようになり、24歳で結婚。
その後、
昭和天皇・皇后両陛下の伊勢神宮参拝の際に、
案内図を担当するほど、名古屋のグラフィックデザイン界の第一人者となりますが、
好きな絵を描くこともやめませんでした。
岸田劉生亡き後は、30歳で梅原龍三郎に師事。
杉本は、
「絵の骨格を岸田劉生から、華やかさを梅原龍三郎から学んだ」と言っています。

35歳頃からは大和の風物に魅せられ、奈良へ頻繁に通って
作家や写真家などさまざまな一流の人たちと親交。
戦争中も、博物館や埴輪、仏像、風景などを多数描いています。45歳で、「週刊朝日」の連載小説、吉川英治の
「新・平家物語」の挿絵に抜擢され、最終回まで7年間担当。
その後は、1962(昭和37年)年57歳での沖縄(当時はアメリカ占領下)旅行を皮切りに、
96歳の中国まで、たびたび海外へスケッチ旅行にも出かけました。
2004(平成16)年2月10日、
肺炎のため満98歳でこの世を去りましたが、
その直前まで絵筆を放さなかったといいます。

「絵は子どもと同じ」と言って、
ほとんど自分の絵を手放さなかった杉本。
当時すでに4,000点以上あった作品を収蔵・展示する場所として1987(昭和62)年にオープンしたのが、知多半島の杉本美術館です(現在は9,700点あまりを収蔵)。
モダンで瀟洒な館内と庭は、設計段階から杉本自身も関わり、ロゴマークも本人のデザイン。
地下のアトリエで、たくさんの作品も生み出しました。

「まず驚きだ、感激だね。感激すれば受胎して、その子どもが絵なの」「感激というのは出逢わなければわからない。対面しないとわからないから、対面するために自分がいろんなことをやったり、出かけていく。それが外国でなくてもかまわないし、身近なことでもかまわない。いつも見ているものでも感激したら、それに夢中になる」(『杉本健吉画文集 余生らくがき』より)

これは杉本が96歳の時、自身の絵の原点について語った言葉です。オープン当初から杉本美術館の学芸員を務める鈴木威さんは、「このアトリエに通って来る時も、道中、一心不乱にじーっと外を見つめて、常に新しい発見や感動を探していました」と教えてくれました。

杉本の人となりについては、「とにかく動物と子どもが大好き。ご自分にも7人のお子さんがいて、家族を大切にする家庭人でした」と、鈴木さん。来館の際、連れてきた赤ちゃんが泣いて恐縮しているお母さんに、「赤ちゃんは泣くのが仕事」と笑いながら話しかけたこともあるとか。歴代の愛犬をはじめ、動物を作品にもたくさん描きました。また、ダジャレも大好きだったそうで、右手を骨折して使えなくなった時(当時84歳)は左手で絵や文字を書き、「左手誕生」という作品を残したり、絵の中に自分の姿を描き入れたり、92歳の時、名古屋能楽堂の鏡板に「若松」を描いたりと、自由さもお茶目っぷりも半端ありません!

「杉本作品の魅力は、どんな人が見ても楽しめる絵画」と鈴木さんが話してくれたように、作品への愛と感激にあふれた、楽しくてすてきな作品がいっぱいです。

この美術館を訪れて、「人は年を取っても、好奇心や感激がある限り、老いることはないんだよ」「人生をおもしろくするもつまらなくするも自分次第」などと、杉本に語りかけられているような気がしました。 

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手紙に対峙していると
とても
ワクワクする。
字からもまた、杉本健吉の鼓動が伝わってくる。
そして、こうして人となりを知ると
また、さらにどんな事を考え、
どんな絵を描き、何を伝えようとしたのかが
知りたくなるのです。