夜中、目が覚めたら一人だった。真っ暗な中一人ぼっちだった。
いつのころの記憶だろうか。思い当たるのは2~3歳頃である。
あの頃、母は豆腐作りをしていた。子どもの頃の屋号は「豆腐屋」だった。
父は軍関係の仕事で夜勤、兄は大学生で首里で下宿。
豆腐屋は朝が早く、3時頃から起きだして働いたという。離れに小屋があって、そこで豆腐作業に勤しんでいた。
起きた後、どうしたか。正直あまり覚えていない。多分怖くてそのまま寝なおしたのかもしれない。
  後に、あの有名な石臼を挽く作業をしたことがある。小学生にはなっていただろう。
物語では、優雅に挽くシーンがよく出てくるが、やってみた感想は、退屈であった。

いや極めて退屈であった。3~4粒の大豆を、ゆっくりゆっくり挽いていくのである。小さな穴に少しずつ落とし入れ、回す作業が延々と続いた。これで豆腐を作るには、どれだけの量が必要なのか、考えることすら無駄に思えた。
 物心つく頃には、豆腐屋は廃業していた。小屋は風呂場を兼ねており、大きな釜で湯を沸かしてタライで湯浴みした。
 前述したが、小学生の頃には豚を飼っていた。そのエサを作るのも私の仕事だった。
畑で取れる芋を煮て、フスマと混ぜてプットルーにして食べさせた。シンメーナービにいっぱい入れ、それを薪で煮る作業があった。それもキツかったが、その前にいっぱいの芋を洗う下作業もあった。水道は当然なく、井戸から汲み上げた。しかもバケツにロープを付けただけのものだった。「芋を洗う」ほどの混雑と言うが、あれはバケツの中に芋をいっぱい入れ、足で踏んづけながら洗う行為のことだそうな。
  随分昔のような話だが、我里に水道が引かれたのは1968年。メキシコオリンピックの年だった。(昭和43年)
思えば遠くに来たもんだ。