厳島神社の摂社だった大頭神社からさらに広島市街方面へ戻り、宮島へ渡る船が発着する宮島口を過ぎ、地御前へ。ブランドカキの養殖で知られる漁業拠点で、地名の由来となっている地御前神社が、漁港のそばに構えている。
この神社は宮島の対岸に位置し、創建は厳島神社と同じ593(推古天皇元)年。当時の厳島は島全体が聖地で人が住むことは禁じられ、対岸に遥拝のために建てられた社が、この神社の起源。厳島神社の外宮とも称される、格式ある社なのである。祭神は市杵島比売命ほか宗像三女神で、厳島神社と同じ。社名は島にある厳島神社に対し「地(陸側)の御前(社)」からついたとされる。厳島神社、弥山にある奥宮の御山神社と一直線上に並ぶ位置にあることからも、その重要さが伺える。
往時は境内に19もの殿舎が建ち並ぶ荘厳な神社だったが、現在では大正3年に再建された入母屋造の拝殿、平安末期の形式を踏襲した1760(宝暦10)年築の本殿と客人本殿の、三つの社殿が並ぶ。境内に立つ鳥居は、広電宮島線の線路と国道2号を隔てた先の小さな浜に面していて、旧暦6月17日に行われる厳島神社の祭礼「管絃祭」では、厳島神社から船を迎える神聖な浜。拝殿には管絃祭の様子を描いた絵馬も飾られ、厳島神社との関係の深さを感じさせる。江戸期までは地御前神社の目の前まで海が迫り、鳥居は海中に立っていて拝殿のすぐそばまで船で入れたとも。
現在は国道2号と広電のほか、境内地の北側にはJR山陽本線が通り、車の走行音とひっきりなしに鳴る踏切の音で、かなりの喧騒の中に位置する。また鳥居と拝殿の間には、旧西国街道から分岐する宮島口への旧参道が通じ、境内の一角には明治期に民間の出資により海沿いに作られた新道を記念した「国道開鑿碑」が。碑には有栖川宮熾仁親王揮毫の「地平天成」の文字が刻まれ、これが元号の平成の由来との説もある。
滝を有する山間の摂社とは対照的な、瀬戸内の海に間近な開けた浜の外宮。厳島神社に関連する神社は、立地も造りも多岐に富んでいる。
この神社は宮島の対岸に位置し、創建は厳島神社と同じ593(推古天皇元)年。当時の厳島は島全体が聖地で人が住むことは禁じられ、対岸に遥拝のために建てられた社が、この神社の起源。厳島神社の外宮とも称される、格式ある社なのである。祭神は市杵島比売命ほか宗像三女神で、厳島神社と同じ。社名は島にある厳島神社に対し「地(陸側)の御前(社)」からついたとされる。厳島神社、弥山にある奥宮の御山神社と一直線上に並ぶ位置にあることからも、その重要さが伺える。
往時は境内に19もの殿舎が建ち並ぶ荘厳な神社だったが、現在では大正3年に再建された入母屋造の拝殿、平安末期の形式を踏襲した1760(宝暦10)年築の本殿と客人本殿の、三つの社殿が並ぶ。境内に立つ鳥居は、広電宮島線の線路と国道2号を隔てた先の小さな浜に面していて、旧暦6月17日に行われる厳島神社の祭礼「管絃祭」では、厳島神社から船を迎える神聖な浜。拝殿には管絃祭の様子を描いた絵馬も飾られ、厳島神社との関係の深さを感じさせる。江戸期までは地御前神社の目の前まで海が迫り、鳥居は海中に立っていて拝殿のすぐそばまで船で入れたとも。
現在は国道2号と広電のほか、境内地の北側にはJR山陽本線が通り、車の走行音とひっきりなしに鳴る踏切の音で、かなりの喧騒の中に位置する。また鳥居と拝殿の間には、旧西国街道から分岐する宮島口への旧参道が通じ、境内の一角には明治期に民間の出資により海沿いに作られた新道を記念した「国道開鑿碑」が。碑には有栖川宮熾仁親王揮毫の「地平天成」の文字が刻まれ、これが元号の平成の由来との説もある。
滝を有する山間の摂社とは対照的な、瀬戸内の海に間近な開けた浜の外宮。厳島神社に関連する神社は、立地も造りも多岐に富んでいる。
