呼子からバスで20分ほど足をのばし、名護屋城跡をめぐった。豊臣秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」に際して築かれた出兵拠点の城で、1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死に伴い諸大名が撤退するまで、7年間にわたり大陸侵攻の拠点となった、壮大な城郭である。

その面積は約17haにおよび、当時は大坂城に次ぐ規模。さらに注目すべきは、当時の主だった戦国大名のほとんどが参戦し、城の周囲に陣を構えていたことである。豊臣一族をはじめ、前田利家、伊達政宗、加藤清正、石田三成、小西行長、福島正則、徳川家康など、130を超える歴戦の雄が集結し、兵をはじめ全国から20万人を超える人々が集まったと伝えられている。

見学は大手口から登城坂を登り、途中の東出丸から城下を見下ろして三の丸へ。三の丸は本丸を守護する重要な曲輪で、広い敷地には井戸や馬場が設けられていた。本丸表門は二層の豪壮な櫓門であり、伊達政宗が青葉城に移築したという伝承も残されている。

その門を通り抜けると、約130m四方の広大な本丸に至る。本丸御殿の礎石や玉石敷をはじめ、城郭の拡張の際に埋められた旧石垣、西側の弾正丸や二の丸や遊撃丸を見下ろす、櫓や多聞跡の石垣などが現存している。

最大の見どころは、本丸北西角にある天守台跡。かつて五層七階の天守閣がそびえ立ち、玄界灘を一望する絶景が広がっていた。眼下には加部島や波戸岬が望め、天候次第では対馬までも見通すことができる。その眺めは、朝鮮を経て明国に挑もうとした、秀吉を気概を今に伝えているようにも思える。