出水は熊本から鹿児島県に入って最初の街で、薩摩藩の「外城」として栄えた出水麓武家屋敷群が、当時のままの姿で残っている。外城は薩摩藩が地域統治のために設けた武家屋敷地区のことで、当時は藩内に103あったとされるが現存するのはここと知覧、入来など。出水は特に肥後藩との国境だったため、最前線の防衛拠点だったとされる。
駅前に「木挽ブルー」で知られる雲海酒造を見て、米ノ津川を渡り本町商店街へ。この川と西寄りの平良川が天然の堀の役目でもあり、川沿いの武家屋敷からやや低い地区は出水麓の武士の配下だった下級武士が住む町、のちには商人町として賑わった。出水麓武家屋敷地区は山城の出水城の麓の台地の上部を平らに造成して作られており、諏訪坂や鬼坂などを登った先の一段高い土地に広がっている。
坂を登った途端、藩政時代へ突然タイムスリップしたような景色が。「馬場」と名付けられた碁盤目の通りが整備され、沿道に川石を積んだ石垣の上に生垣が配された、多数の屋敷が並ぶ。多くの屋敷には今も人が住んでおり、出水は戦時の空襲を逃れたため比較的景観が保持されている。通りは掘り下げて造られ石垣はその土留めで、有事には区画ごとが砦のように機能。生垣越しに外を監視でき、屋敷の武家門を閉めれば籠城もできるなど、まさに要塞都市である。
見学できる屋敷は三原邸、税所邸、竹添邸、竹宮邸などで、いずれも麓の重職を務めていた上級武士。薩摩藩の武士は農耕も行っており、屋敷はその日常生活の棟と武士として接客などに使う棟が繋がった、薩摩独特の造り。税所邸には屋内弓練習場があるなど、武士として鍛錬を重ねた以降も見られる。竹添邸や宮地邸は大河ドラマのロケにも使用。南側の出水小は役所と藩主の宿泊所の跡で、平時は藩主はここに滞在、政務もここで行われていた。
暑い日差しと空気の中、縦横にめぐる石垣の小道を歩けば、南国の藩らしさが感じられる薩摩の武家屋敷である。
駅前に「木挽ブルー」で知られる雲海酒造を見て、米ノ津川を渡り本町商店街へ。この川と西寄りの平良川が天然の堀の役目でもあり、川沿いの武家屋敷からやや低い地区は出水麓の武士の配下だった下級武士が住む町、のちには商人町として賑わった。出水麓武家屋敷地区は山城の出水城の麓の台地の上部を平らに造成して作られており、諏訪坂や鬼坂などを登った先の一段高い土地に広がっている。
坂を登った途端、藩政時代へ突然タイムスリップしたような景色が。「馬場」と名付けられた碁盤目の通りが整備され、沿道に川石を積んだ石垣の上に生垣が配された、多数の屋敷が並ぶ。多くの屋敷には今も人が住んでおり、出水は戦時の空襲を逃れたため比較的景観が保持されている。通りは掘り下げて造られ石垣はその土留めで、有事には区画ごとが砦のように機能。生垣越しに外を監視でき、屋敷の武家門を閉めれば籠城もできるなど、まさに要塞都市である。
見学できる屋敷は三原邸、税所邸、竹添邸、竹宮邸などで、いずれも麓の重職を務めていた上級武士。薩摩藩の武士は農耕も行っており、屋敷はその日常生活の棟と武士として接客などに使う棟が繋がった、薩摩独特の造り。税所邸には屋内弓練習場があるなど、武士として鍛錬を重ねた以降も見られる。竹添邸や宮地邸は大河ドラマのロケにも使用。南側の出水小は役所と藩主の宿泊所の跡で、平時は藩主はここに滞在、政務もここで行われていた。
暑い日差しと空気の中、縦横にめぐる石垣の小道を歩けば、南国の藩らしさが感じられる薩摩の武家屋敷である。
