このたびのさんぽは大分で、まずは豊後竹田を歩いた。瀧廉太郎が幼少期を過ごし、『荒城の月』の題材となった岡城跡で知られる城下町である。駅前を流れる稲葉川を渡ると昭和の商店が並ぶ古町通り、一筋南の下本町通りは白壁や木造の町家が並び、それらの間の八幡川横丁を抜けると八幡山の上に愛染堂が建つ。麓の十六羅漢、楼門の円通閣とともに巡ると人生をたどる祈願となり、地元では「八幡山一生祈願と呼ばれている。

山懐の道は寺町れんたろう通りとの名がつき、氏がが12歳から14歳までを過ごした居宅を用いた瀧廉太郎記念館、氏の楽曲が流れる手掘りの廉太郎トンネルとゆかりの見どころが続く。岡城のつくりや藩主中川氏十三代を紹介した資料館の由学館、文人田能村竹田の住まいであった武家屋敷の旧竹田荘を経た先には、土塀に薬医門の邸跡が残る殿町の武家屋敷、奥の山中には日本最古ともいわれる切支丹洞窟礼拝堂跡がある、静謐な一角である。

日露戦争の旅順戦で戦死した「軍神」広瀬武夫中佐を祀る広瀬神社で、戦争遺産や市街の展望を眺めたら、トンネルと坂道が続き岡城跡へと近づく。1594(文禄3年)に岡城主となった中川秀成が築いた難攻不落の城砦で、周囲を囲う断崖絶壁と、その絶壁上に築かれている石垣群が威容を見せる。急な九十九折れの石段を杖を頼りに登った先、大手門跡を抜けると縄張りが広がり、藩主中川氏の御殿があった西の丸、家老や家臣の邸跡、謁見に使われた三の丸、眺めがよく遊興に使われ瀧廉太郎像が立つ二の丸などが。

いずれもそそり立つ石垣の上にあり、柵や歩道はない当時のままなので堅牢さが伺え、踏みはずすと谷底まで落下する怖さもまた迫力のうち。本丸には岡城天満神社が建ち、傍には『荒城の月』の歌詞碑が。最高所の御三階櫓の上に立つと、詩と唄の情景が一望のもとに見渡せ、きつい登りの疲れも吹っ飛ぶ壮大さである。