鍬ヶ崎地区の防潮堤は、高さ10.4m、延長1.6km。地域から海が見えなくなり、ところどころに窓が設けられている。出崎埠頭から、鍬ヶ崎と臨港通界隈へ。鍬ヶ崎上町の高台には金刀比羅神社と、昔からの家が斜面に密集する。防潮堤の陸側には水産加工店が並び、ところどころには用地の貸付や販売も。漁協の冷凍冷蔵施設などの施設も、改築されている。
宮古は古くは江戸〜北海道の松前を結ぶ、北前船東廻り航路の要衝で、鍬ヶ崎は遊郭や料理屋が軒を並べる、南部領内随一の繁華地だった。戦前からは「販売所」と呼ばれた漁業の拠点で、昭和35年築の旧宮古魚市場の建物もあり、水揚げする漁船で賑わっていた。
七滝公園には、幕末の箱館戦争の前哨戦だった宮古港海戦や、釧路から上京する石川啄木の『啄木日記』が刻まれた、寄港の地碑が。
鍬ヶ崎は領内随一の繁華街で景勝地の浄土ヶ浜も近く、江戸時代より多くの文人墨客が訪れ俳句や和歌・紀行文を残した。啄木は老母と妻子を北海道に残し、自分の文学的運命 を賭けた上京の旅だった。公園から鍬ヶ崎下町の市街へ、このあたりは津波で町がすべて流された地区で、復興した住宅街の間にも空き地や公園、駐車場も目立つ。
直進すると岩手県初の環状交差点で、浄土ヶ浜方面へは手前を右へ。信号のないスムーズな避難道路を確保するためのもので、この先は蛸の浜町の集落へと入っていく。浄土ヶ浜と田老方面を結ぶ県道248号の、浄土ヶ浜大橋の直下に位置。鍬ヶ崎小学校横には熊野神社が鎮座しており、真新しい鳥居は津波の被害の後に再建されている。小高い丘にあり参道の傍に立つ津波の到達点の碑は、蛸の浜の集落がほぼ流される高さだ。
社は伊邪那美命を御祭神とし、紀州の山根家が代々神主を務めた由緒がある。境内からは集落越しに宮古湾が覗け、現在は防潮堤に隔てられているが、かつては海が見える集落だった。社殿の後ろの高台へさらに登ると、浄土ヶ浜大橋が頭上間近に迫る。集落の最奥へ登ると曹洞宗の心公院で、鍬ヶ崎浦の漁師が開創した寺院。このあたりが界隈の最高所で、津波は太平洋からここを越えて蛸の浜の集落へと流れ込んだ。
宮古は古くは江戸〜北海道の松前を結ぶ、北前船東廻り航路の要衝で、鍬ヶ崎は遊郭や料理屋が軒を並べる、南部領内随一の繁華地だった。戦前からは「販売所」と呼ばれた漁業の拠点で、昭和35年築の旧宮古魚市場の建物もあり、水揚げする漁船で賑わっていた。
七滝公園には、幕末の箱館戦争の前哨戦だった宮古港海戦や、釧路から上京する石川啄木の『啄木日記』が刻まれた、寄港の地碑が。
鍬ヶ崎は領内随一の繁華街で景勝地の浄土ヶ浜も近く、江戸時代より多くの文人墨客が訪れ俳句や和歌・紀行文を残した。啄木は老母と妻子を北海道に残し、自分の文学的運命 を賭けた上京の旅だった。公園から鍬ヶ崎下町の市街へ、このあたりは津波で町がすべて流された地区で、復興した住宅街の間にも空き地や公園、駐車場も目立つ。
直進すると岩手県初の環状交差点で、浄土ヶ浜方面へは手前を右へ。信号のないスムーズな避難道路を確保するためのもので、この先は蛸の浜町の集落へと入っていく。浄土ヶ浜と田老方面を結ぶ県道248号の、浄土ヶ浜大橋の直下に位置。鍬ヶ崎小学校横には熊野神社が鎮座しており、真新しい鳥居は津波の被害の後に再建されている。小高い丘にあり参道の傍に立つ津波の到達点の碑は、蛸の浜の集落がほぼ流される高さだ。
社は伊邪那美命を御祭神とし、紀州の山根家が代々神主を務めた由緒がある。境内からは集落越しに宮古湾が覗け、現在は防潮堤に隔てられているが、かつては海が見える集落だった。社殿の後ろの高台へさらに登ると、浄土ヶ浜大橋が頭上間近に迫る。集落の最奥へ登ると曹洞宗の心公院で、鍬ヶ崎浦の漁師が開創した寺院。このあたりが界隈の最高所で、津波は太平洋からここを越えて蛸の浜の集落へと流れ込んだ。
