かつての北前船の寄港地の船主集落である岩瀬大町・新川町通りへは、終点の手前の東岩瀬で下車。岩瀬は北前船の重要な中継地のひとつで、江戸時代には加賀藩の御蔵が置かれ、新川郡一帯の米が集積、大阪への積出港として栄えた。また富山の売薬業者が商売の傍ら北前船を持ち、昆布を運搬する見返りに琉球が中国から輸入していた薬の原料を、薩摩藩を通して買い取っていた。19世紀初期からは、北海道方面への肥料(鰊肥)を中心とした北前船主(回船問屋)が、界隈に軒を連ねていたという。明治6年の大火で町の大半が焼失したものの、財力ある廻船問屋により岩瀬独特の様式の家屋が再建、船主集落が今に伝わっている。
東岩瀬駅舎は国鉄富山港線時代から残る唯一の駅舎で、富岩鉄道開通時の佇まいを伝えている。駅前からの道を岩瀬小学校の前でクランクして、岩瀬大町・新川町通りへと入っていく。西側が神通川の川港を背にした、加賀藩の藩政時代の官道で、「岩瀬五大家」と呼ばれた森家をはじめ馬場家、佐藤家、米田家、佐渡家など回船、肥料、北洋漁業で活躍した旧家の回船問屋が並ぶ海商の町だ。多くは前庭のある三列四段の間取りを持つ、「東岩瀬廻船問屋型」と呼ばれる最高級の町屋建築といわれた。
入口近くの富山第一銀行は、大正〜昭和期の建築。板塀の家、うだつの家、白壁土蔵の家、格子戸の家など建物の種類は様々で、商店も佐藤釣具店など商家を用いた店など、今も現役の店舗や人が住むところも多い。焼板塀の家、うだつの家、白壁土蔵の家、格子戸の家など建物の種類は様々。杉玉の枡田酒造店の脇には、白壁土蔵の路地が続く。間口より奥行きが長い屋敷が多く、建物は何度か継ぎ足されている様子がわかる。
東岩瀬駅舎は国鉄富山港線時代から残る唯一の駅舎で、富岩鉄道開通時の佇まいを伝えている。駅前からの道を岩瀬小学校の前でクランクして、岩瀬大町・新川町通りへと入っていく。西側が神通川の川港を背にした、加賀藩の藩政時代の官道で、「岩瀬五大家」と呼ばれた森家をはじめ馬場家、佐藤家、米田家、佐渡家など回船、肥料、北洋漁業で活躍した旧家の回船問屋が並ぶ海商の町だ。多くは前庭のある三列四段の間取りを持つ、「東岩瀬廻船問屋型」と呼ばれる最高級の町屋建築といわれた。
入口近くの富山第一銀行は、大正〜昭和期の建築。板塀の家、うだつの家、白壁土蔵の家、格子戸の家など建物の種類は様々で、商店も佐藤釣具店など商家を用いた店など、今も現役の店舗や人が住むところも多い。焼板塀の家、うだつの家、白壁土蔵の家、格子戸の家など建物の種類は様々。杉玉の枡田酒造店の脇には、白壁土蔵の路地が続く。間口より奥行きが長い屋敷が多く、建物は何度か継ぎ足されている様子がわかる。
