赤い太鼓橋の景雲橋を渡り、本丸の芝生広場へ。富山藩二代藩主の前田正甫は医薬の研究に尽力して、富山の薬売誕生のきっかけとなった人物である、腹痛の際に岡山藩の医師・万代常閑がつくった「反魂丹」で痛みが収まったことから製法を学び、これが富山の製薬の基礎となった。そして江戸城内で三春藩主の腹痛を、氏が常備の反魂丹で直した事が話題となり、富山の薬が全国に知られるように。これを期に、薬御用達松井屋源右衛門により反魂丹などを製薬、各藩へ販売する富山の売薬の基礎となる。1765(明和2)年には反魂丹役所を設立、配置員の身分証明、製薬の指導、懸場帳の整備など、売薬の組織化にも務めている。
千家ゆかりの茶室の碌々亭がある、本丸亭の板塀の先には、池泉回遊式の和風庭園が広がる。佐藤記念美術館では、東洋の古美術を中心とした特別展や企画展を開催。城郭建築の旧館と平屋造の新館に、2つの茶室もある。いったん城外へ出て、野面積みの石垣を見て城内へ。富山城は土塁主体の城で門があったところに石垣が設けられ、布積みと内側からの三重構造になっている。移築された埋門の千歳御門は東大赤門と同形式で、唯一現存する城郭建造物。本丸には玉砂利の庭が広がり、江戸時代の富山城の石垣に使われていた景石が残っている。
富山城は1543(天文12)年に、越中西部を治めた守護代・神保長職が築城。1582(天正10)年には織田家臣の佐々成政が越中守護に、加賀前田家の領国となった後、1661(寛文元)年に富山藩成立後は230年に渡り富山前田家が治めた。天守は戦災復興の博覧会で再建された、富山市郷土博物館。旧本丸黒鉄門の石垣に配され、望楼を載せた三重四層構造は、彦根城や犬山城の現存天守を参考にしたという。堀は内堀と外堀の二重で、堀を渡る土橋は昔の位置にある。神通川やいたち川も堀として城を防御していた。周辺にもガラス彫刻が配され、「水の記憶」は富山県ガラス美術館の所蔵。
千家ゆかりの茶室の碌々亭がある、本丸亭の板塀の先には、池泉回遊式の和風庭園が広がる。佐藤記念美術館では、東洋の古美術を中心とした特別展や企画展を開催。城郭建築の旧館と平屋造の新館に、2つの茶室もある。いったん城外へ出て、野面積みの石垣を見て城内へ。富山城は土塁主体の城で門があったところに石垣が設けられ、布積みと内側からの三重構造になっている。移築された埋門の千歳御門は東大赤門と同形式で、唯一現存する城郭建造物。本丸には玉砂利の庭が広がり、江戸時代の富山城の石垣に使われていた景石が残っている。
富山城は1543(天文12)年に、越中西部を治めた守護代・神保長職が築城。1582(天正10)年には織田家臣の佐々成政が越中守護に、加賀前田家の領国となった後、1661(寛文元)年に富山藩成立後は230年に渡り富山前田家が治めた。天守は戦災復興の博覧会で再建された、富山市郷土博物館。旧本丸黒鉄門の石垣に配され、望楼を載せた三重四層構造は、彦根城や犬山城の現存天守を参考にしたという。堀は内堀と外堀の二重で、堀を渡る土橋は昔の位置にある。神通川やいたち川も堀として城を防御していた。周辺にもガラス彫刻が配され、「水の記憶」は富山県ガラス美術館の所蔵。
