清水沢川を上根岸橋まで戻り、横手市民病院方面へ直進。途中、秋田地方裁判所横手支部へ登る坂の袂に、横手市生まれの洋画家の金沢秀之助、日本宇宙工学の先駆者と言われる佐貫亦男の紹介板があり、こちらを登ると先程の日進館の正面入口へと出る。病院を過ぎたところで横手公園の入口の石標があり、草に埋もれかけたような急でつづら折れの石段「七曲坂」を、時折木々の間から見える市街を見下ろしながら登っていく。こちらが正面の大手口で、登り切ったところには多聞櫓だった大手門跡がある。
横手城は戦国期の天文・弘治年間(1532〜1557)に、小野寺輝道により築城された。関ヶ原の合戦時に、城主の小野寺義道が反徳川方についたために配流。1602(慶長7)年に佐竹氏が秋田藩主になってからは久保田城の支城として、戸村氏ら城代が置かれた。1868(慶応4)年に戊辰戦争で焼かれるまで、長きに渡り横手盆地一帯を支配していた城である。本丸までの比高は37.7m、現在残る城郭は佐竹氏が秋田藩へ入った際に整備し直した姿である。
まずは右手の本丸へ、東屋がある付近が展望所で、正面に横手駅方面の市街が臨めるが木々が多くやや遮られ気味。そばには石坂洋次郎の文学碑があり、『若い人』からの一節が記されている。一段登ったところに、横手城の焼け残った材で造った秋田神社が鎮座。秋田藩祖の佐竹義宣、最後の藩主の佐竹義堯が祭神で戊辰戦争の戦没者を供養している。大手門左手の武者溜は本丸と二の丸の中間に位置し、軍勢の集合場所となっていたとされる。その先、城郭を模した横手城展望台が建つのが二の丸。横手城は佐竹氏の久保田城と同じく、天守は設けず大規模な本丸御殿が置かれていたという。
展望台は昭和40年築、4階建てで内部は2回が企画展会場のほかは武具甲冑や横手城代家老が乗った駕籠に嫁入り道具の長持などの歴史資料、中山窯で焼かれた中山人形などの郷土玩具などが展示されている。4階が展望室で、西側は横手川と市街越しに鳥海山、北は田園越しに秋田方面、東は横手公園の緑を見下ろし、南は愛宕山の向こうに湯沢方面を遠望できる。先ほどの武家屋敷街の木々や、市役所から横手駅方面の市街も間近に見え、まさに横手盆地を手にとるような眺めである。
横手城は戦国期の天文・弘治年間(1532〜1557)に、小野寺輝道により築城された。関ヶ原の合戦時に、城主の小野寺義道が反徳川方についたために配流。1602(慶長7)年に佐竹氏が秋田藩主になってからは久保田城の支城として、戸村氏ら城代が置かれた。1868(慶応4)年に戊辰戦争で焼かれるまで、長きに渡り横手盆地一帯を支配していた城である。本丸までの比高は37.7m、現在残る城郭は佐竹氏が秋田藩へ入った際に整備し直した姿である。
まずは右手の本丸へ、東屋がある付近が展望所で、正面に横手駅方面の市街が臨めるが木々が多くやや遮られ気味。そばには石坂洋次郎の文学碑があり、『若い人』からの一節が記されている。一段登ったところに、横手城の焼け残った材で造った秋田神社が鎮座。秋田藩祖の佐竹義宣、最後の藩主の佐竹義堯が祭神で戊辰戦争の戦没者を供養している。大手門左手の武者溜は本丸と二の丸の中間に位置し、軍勢の集合場所となっていたとされる。その先、城郭を模した横手城展望台が建つのが二の丸。横手城は佐竹氏の久保田城と同じく、天守は設けず大規模な本丸御殿が置かれていたという。
展望台は昭和40年築、4階建てで内部は2回が企画展会場のほかは武具甲冑や横手城代家老が乗った駕籠に嫁入り道具の長持などの歴史資料、中山窯で焼かれた中山人形などの郷土玩具などが展示されている。4階が展望室で、西側は横手川と市街越しに鳥海山、北は田園越しに秋田方面、東は横手公園の緑を見下ろし、南は愛宕山の向こうに湯沢方面を遠望できる。先ほどの武家屋敷街の木々や、市役所から横手駅方面の市街も間近に見え、まさに横手盆地を手にとるような眺めである。
