木造の南洲橋で河川敷から折れ、資料館の維新ふるさと館を過ぎたら、偉人を多く輩出した加治屋町へと入っていく。街を区画に分けその中で教育をする「郷中教育」が行われた地区で、偉人を多数輩出した所以となっている。西郷隆盛・従道誕生地の森を過ぎ、みゆき通りを洋館建築の鹿児島中央高校に沿って曲がる。この高校の角は村田新八、敷地内は東郷平八郎の生誕地で、みゆき通りの沿道には大山巌の生誕地の碑もある。

電車通りに出たら偉人ゆかりの地からは離れ、繁華街の天文館方面を目指す。沿道のところどころに灰の収集場所があり、回収車が行き交っているのがさすが、火山を前にした都市。交差点の真ん中にレトロな架線柱が立つ、高見馬場を過ぎると、商業施設や飲食店が目立ち始めてくる。天文館は鹿児島最大の繁華街・歓楽街で、ヨーロッパ文明を進んで取り入れた島津重豪公が、1779年に天文観測や暦の作成などを行う施設「明時館(別名天文館)」を建てた場所にちなむ。

アーケードの入り口の脇にはボンタンアメや白熊の看板、中もさつま揚げやかるかんや鹿児島物産店が並び、比較的地元色が濃い印象。舗道には宇宙をイメージしたタイルが配されたり、天文館があった場所の碑や、観測を行う島津重豪と家臣の像があったりと、天文館の名残らしい見どころも点在している。明時館が作成した暦は「さつま暦」と呼ばれ、適時適作により農産物の増産を図ることが目的だったとされる。

このあたりは商店街が錯綜していて、天神馬場の通りの「天神ぴらもーる」のアーケードを抜け、照国神社の参道の照国通りを渡り、御着屋通りの「オツキヤ東通り」に入ってすぐを折れると、野菜町通りの「中町ベルグ」のモダンな構えのアーケードへ。西本願寺鹿児島別院の門前だからか和装や仏具が多い印象で、お盆に近いので名入れをしてくれる提灯屋も。あたりの中町は明治22年に鹿児島市ができた際、賑わった中心街だったのでその名がついた。

中町ベルグからは木屋町通り、なや通りなどアーケードが数本分岐していて、ガラスドームがある交差点を過ぎると、電車通りの金生町通りへ。通りに面して山形屋1号館のレトロな建物がそびえている。1772(安永元)年に、山形出身の紅花・織物商の岩元源右衛門が創業。大正5年にルネッサンス式鉄骨4階建の店舗が誕生、増築部や別館とともに、平成10年にルネッサンス風のデザインに統一された。丸窓の塔に時計塔、アーチ状の窓枠が、繁華街の中心でレトロモダンなたたずまいである。